旧ホームページ上の掲示板への掲載記事

2021年11月09日に櫻田喜貢穂さんが投稿された

①山本虎雄顕彰碑と「青竹」のご紹介、

②山本虎雄さんのこと に関連した写真です。

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櫻田喜貢穗 (木曜日, 05 32015 20:00)

「故山本政道さんを偲ぶ」
平成27年2月24日早朝、山本政道さん(昭和17年生 木戸出身)が虚血性心疾患のため亡くなりました。72歳でした。いくらなんでも早すぎです。
3月1日夜、「お別れ会」が板橋区の蓮根レインボーホールで催されました。尾和剛一会長ら青木村の同期生8名が参列しましたので、私も同行させてもらい、お別れをしてきました。

「お別れ会」は、埼玉弁護士会の会長の弔辞に始まり、自由法曹団の団長、修習同期の弁護士や学生運動時代の仲間など10名ほどの弔辞が続きました。学生時代からの友人や労苦を共にした友人たちの弔辞は、山本政道さんの正義感、情熱、一貫してぶれない考え方や心情を浮き彫りにし、涙と、ときに笑いを誘いました。北京で毛沢東から武力革命をそそのかされたさい、日本には平和憲法があるからと決然と断ったエピソードも紹介されました。
「熱血人権派弁護士」というのが山本さんに対する一般的な評判であったようです。参列者へのあいさつに立った奥様は、政道さんは若いころ「絹の道=シルクロード」を歩いてみたいと言っていたが、結局のところ一貫して歩んだのは「人権の道(人絹の道)」だったと語られました。これからは二人で「木綿の道」を歩こうと思っていた、それなのにさっさと一人で逝ってしまったと残念がっていましたが、本人は死ぬまで好きなことをやり通したので満足だったことでしょうと結びました。
亡くなる直前までやっていた好きなことというのは、集団的自衛権行使の閣議決定を撤回させる運動の準備だったそうで、やはり山本さんは間違いなくお父さんの遺伝子を引き継いでいたようです。

弔辞を拝聴しながら、私は山本さんとの思い出に浸っていました。私にとって山本さんは、「熱血人権派弁護士」というよりは、優しくて穏やかな同郷の先輩弁護士でした。
私は、山本さんよりも5歳年下なので、子どものころには接点はなかったのですが、司法試験の勉強を本格的に始めた昭和51年ころ、偶然東京で出会いました。友人の紹介で、勉強会に参加できることになったのですが、その勉強会の上級クラスに山本さんがいたのです。初対面のとき簡単な自己紹介をしたら直ちに同郷であることがわかり、お互いにびっくりしました。その後、山本さんは昭和54年に合格するのですが、53年から54年にかけて私は山本さんに何通も論文の答案を添削してもらっています。
遅れること9年、昭和63年に私がようやく合格したとき、山本さんもたいそう喜んでくれ、祝賀会に来てくださいました。そのあと、青木村の同級生が女将をしている新橋の居酒屋に連れて行ってもらい、夜更けまで飲んだ記憶があります。
私が弁護士になってからは、たまに裁判所で顔を合わせることがあっただけで、「今度一杯やろう」と声を掛けあったものの、結局それは果たせずじまいでした。
しかし、実は、二人で相談し、共同で行ったことが一つだけあります。平成16年の秋、毎日新聞社から、母校(小学校と中学校)の後輩たちに1年間、子ども新聞・学生新聞を贈呈してくれないかという要請がありました。毎日新聞社は山本さんにも同様の電話をしていましたので、私と山本さんは電話で協議し、二人の連名で、青木小学校と中学校へ子ども新聞・学生新聞を贈ることにしました。1年が経つとまた毎日新聞社から電話がありました。更新の要請です。毎年、更新の要請があると、どちらからともなく連絡を取るのですが、山本さんも私も断れません。いつも、「もう1年続けようか」ということになり、結局平成22年ころまで続けたと思います。そこで止めたのは、私どもの方から断った記憶がないので、毎日新聞社から更新の要請がなかったからでしょう。母校に新聞を贈るというキャンペーンが終わったのかもしれません。
山本さんがこんなに早く逝ってしまうなんて想像もできなかったのですが、この二人の共同作業が山本さんの思い出として私に残りました。
いまはもう、ご冥福をお祈りするほかありません。
(2015・3・5)

·        #3

岡田敦子 (日曜日, 08 22015 16:02)

東京青木会に参加しましょう!
 
「東京青木会?何これ?」三、四年前初めて葉書を手にしたときの感想です。ただ、千曲市出身の夫が「関東千曲会」に時々兄弟と連絡を取り合って参加していましたので、それと同じような会なのだろうとは思いました。最初の年は、総会終了後、同じ学年の人たちと上の喫茶店でおしゃべりし、同窓会気分で楽しいひとときでした。今年は「故郷を巡る旅」に参加。役場の皆様が添乗員並に、マイクロバスの運転から、歴史文化資料館の解説まで、とてもきめ細かく応対して下さり、何と、十観山の登頂も果たしました。故郷のことなど、何も知らない状態でしたが、修那羅峠の石仏や、五島慶太生家など巡り、たくさん解説していただき、少し故郷の歴史がわかってきました。「ますや」に宿泊して全員で大いに笑い転げ、楽しい旅でした。第二の人生をすごしている方には「教育?」と「教養?」が必要とか。すなわち「今日行くところがある」「今日用事がある」が、大切なことだそうです。「東京青木会」に入って、人脈を広げてみませんか?思いがけない出会いがあるかもしれません。会員一同お待ちしています。

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櫻田喜貢穗 (土曜日, 17 12015 17:02)

「青木の郵便局」

はじめて投稿いたします。
まずは、自己紹介です。庶民と中小企業を依頼者とする民事事件中心の弁護士をやっています。25年ほどになります。特に専門分野であると誇れるものはありませんが、依頼者の話にじっくりと耳を傾けながらも、決して依頼者の道具に陥ることなく、依頼者に添って、依頼者の幸せを考えていく、そして能力が足りない分は粘り強く頑張ることで補う、というあたりが私の特徴でしょうか。櫻田法律事務所は半蔵門の近くにございます。
生まれは昭和2211月で、村役場のそばに20年ほど前まで亀屋(本店と分店)という商店があったのですが、それが私の生家です。母の津やみは、亀屋の一人娘でしたが、昭和25年に分家して、亀屋分店という商号で、文房具の商いをしておりましたので、ご存知の方も多いのではないかと思います。

その亀屋ですが創業者は曽祖父兼次郎です。兼次郎は、中村の櫻田岩次郎の二男として安政5年に生まれ、明治5年に14歳で分家し、そのころ、浜松から移住してきた瓦屋石川善兵衛に弟子入りして、瓦の製造を学び、その後、下奈良本で瓦屋を開業しました(「跡部郷 那須の里のつれづれに」による)。
明治23年、新道(長野県第二線路 現国道143号線)が開通するのですが、その直前の明治20年(1888年)ころ、兼次郎は旧道(東山道)と新道が交差する現在の村の中心地を取得します。おそらく、石川善兵衛氏から譲り受けたものと思われますが、兼次郎は、その場所で瓦屋ではなく、村で最初の小売商店を始めました。酒以外は何でも扱う「万屋」で、屋号を「亀屋商店」といい、自らを「亀屋兼治郎」と称しました。
ちなみに青木村は、市町村制の施行に伴う明治22年(1889年)41日、村松郷、奈良本村、田沢村、沓掛村、夫神村、殿戸村の6村が合併して発足しています。
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ところで、明治4年(1871年)、郵便法が制定され、翌57月、上田に三等郵便役所が、同年9月、浦野に郵便取扱所が開設されました。青木村一円は同所の区内で、110通か20通の封書やはがきが配達されていたにすぎなかったのですが、日清戦争のころから郵便が増えだしたため、村にも取扱所が設置されることになりました。といっても当時公費が乏しかったので、明治政府は地域の名士や大地主らに郵便取扱業務を委託するわけです。青木郵便受取所が設置されたのは明治34年(1901年)315日、取扱人(受託者)には、ますや旅館の主である宮原庄右衛門氏が任命されました。設置された場所は亀屋商店の一隅でした。兼次郎が亀屋の建物の一部を青木郵便受取所に賃貸したわけです。
そして、明治36820日、宮原庄右衛門氏は、亀屋の敷地のど真ん中に白壁の洋風2階建の局舎を建てます。この庁舎はハイカラなものでしたから、村人に注目されたそうです。兼次郎は、今度は敷地のど真ん中を宮原庄右衛門氏に賃貸したわけです。その後、青木郵便受取所は、明治3841日、三等無集配郵便局になり、同39326日、三等集配郵便局に昇格しました(この項は、田沢郷中村誌編纂委員会編 「中村誌」による)。

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時代は明治から大正、そして昭和に入ります。母津やみが上田の女学校に通っているころですから、昭和5年前後のことであると思いますが、私の祖父亹男は、青木郵便局の宮原氏を被告として、上田の裁判所に建物収去土地明渡請求の訴を起こしました。上田市の弁護士との裁判資料の授受は女学校へ通う母の担当であったそうです。
兼次郎と宮原庄右衛門氏との間で締結された郵便局敷地の借地契約が、いつ、どのような理由でトラブルになったのかはわかりません。単に亹男が立ち退きを求めただけかもしれません。結果的に亹男は、建物を収去してもらい、土地を明け渡してもらっています。勝訴したのか、訴訟上の和解による結果なのかは知りません。母にも聞いたのですが、母も知りませんでした。おそらく知らされなかったのでしょう。
こうして青木の郵便局は、亀屋の敷地から、沓掛温泉に向かう街はずれの田沢川のほとりに移ったのでした。おそらく皆さんの記憶にある郵便局は、田沢川のほとりに佇む石造りの建物ではないですか。

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東京青木会のホームページの伝言板に「『禁酒会』について思う」を寄稿された宮原豊氏の生家はますや旅館ですから、同氏は85年前の被告の孫であり、私は原告の孫になります。宮原豊氏は、ジェトロ勤務で海外駐在が長かったのですが、インド(ニューデリー所長)から日本に戻ってからは国内で活躍されていますので、ここ数年はしばしば「飲酒会」を催し、親交を深めております。同氏にも祖父たちの訴訟のことを尋ねたのですが、親御さんから何も聞いていないとのこと。いまや先祖同士の確執は、酒のつまみとなり、ご先祖様も喜んでいることでしょう。
2015115 櫻田喜貢穗)

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宮原 豊(木曜日, 11 122014 15:04)

「禁酒会」について思う。
父は大酒飲みで知られていました。東京オリンピックの頃ですが、里帰りした父の妹たち(つまり私の叔母たち)は「あの大酒飲みのあんたの父さんも東京にいる頃に禁酒会に参加していたらしいわよ、おかしいね」と笑いました。「禁酒会?」という不思議な響きが今も脳裏に残っています。
2013
616日(日)に第70回東京青木会総会が開催されました。もう2年近く前になりますが、この時初めて東京青木会のルーツを知りました。東京青木会の歴史を遡ると、青木村出身の関東周辺在住者の懇親会は大正7年に発足し、95年続いていると知りました。青木村出身の五島慶太氏(旧姓小林)の尽力により千代田区三番町旧上田藩邸内に千曲寮が完成、初代管理人になったやはり青木村出身の早川喜八氏が「禁酒会」をスタートさせたのが始まりだそうです。前身も含め東京青木会は、戦争中などに何年か中止していたことがあるために、2013年は年次総会としては70回目の記念すべき大会でした。
「禁酒会」と聞き、叔母たちが言っていた「父が参加していた禁酒会」の話がよみがえりました。父が東京にいたのは旧制中学を卒業して逓信省勤務の頃で、昭和10年代中頃に松本連隊に召集される迄のことです。きっと軍部の台頭により圧迫感が増していく時代だったろうと思います。だから飲む酒もなく本当に禁酒をしていたのかもしれないと真面目に考えました。ところが、会の歴史に詳しい高橋会長は「禁酒会は飲み会だよ」とバッサリ。あぁ、このユーモアあふれるネーミングに感心しました。
五島慶太氏がバックにいたわけだし、青木村出身の若者にとっては食べさせてもらえるし飲ませてもらえる楽しい会だったのだろうと想像します。特に昭和大恐慌以降、普段ひもじい思いをしていた田舎出の若者にとって「禁酒会」に出席するのは当然ではないですか。その頃は大っぴらに「飲み会」とは言えない風潮の中で、そこが唯一楽しく過ごすことのできる場所だったのかもしれません。
時は戦後になって、焼け野原の東京で海軍出身の若者たちが勉強会を重ねていました。はみ出し者を自称していたので「半纏会」と名付けたそうです。その中に何故か陸軍出身の五島昇氏が一人参加しており、聞けば毎回五島家で開催されたらしいです。何故か?「五島家には何かしら食べ物があったし酒もあった。だから自然とみんな集まるようになった」と、中曽根元首相と親しかった赤澤璋一氏(通産省出身、元ジェトロ理事長)、永末英一氏(元民社党委員長)、中川幸次氏(元野村総研社長)等の思い出話で盛り上がる座卓の末席で聞いたことがあります。今から30年以上も前、中曽根政権誕生の前年のことです。「ただ食って飲んでいただけではない。日本の将来についてよく議論したよ。でも食い物も酒もあったから会は続いた」と正直です。今思えば食べ物で緊密な人間関係が形成できた古きよき時代のことです。
翻って、飲食に満たされている今の時代は戦前・戦後と違い、若者が集まるには何か別の理由が必要だと思います。「昔話」をするのが集まる理由で悪いわけではないのですが、若者を引き付けることは難しいです。今まで100年続いてきた東京青木会を次世代に繋いでいくことはそれだけで価値あることと思いますが、それをどのように引き継いでいくか、知恵と工夫が必要なようです。