東京青木会「100年の歩み」

(100周年記念誌「常盤の緑」より転載)

 

 東京青木会は令和元年(2019年)に創立100周年を迎え、それを記念して「常盤の緑」《改定版》(⇐リンク)を9月26日に発行しました。

 内容は、はじめに平林秀明会長挨拶、続いて北村政夫村長、沓掛計三村議会議長、沓掛英明教育長の御三方から頂いた祝辞に続き、第1部として 随筆「青木村と私」に43人の会員から寄せられた投稿文を収録、第2部で 東京青木会「100年の歩み」を掲載いたしました。これは従前の「東京青木会の歴史」(2012年時点)(⇐リンク)を基本としつつ、その後明らかになった事柄を加筆するとともに、その時点でカバーされていない平成25年度(2013年)以降の7年間の活動内容等を書き加えたものです。

 第1部 投稿文(本文)は、個人情報に関わるところも多いのでホームページ上では割愛し、ここには第2部 東京青木会「100年の歩み」のみを掲載することといたします。「常盤の緑」(100周年記念誌)発行事業については別項設けて説明しますが、全体の構成については「常盤の緑」の目次をご参照ください。

 なお、《改定版》発行の理由は「編集後記」に記されていますが、初版は投稿文の脱落や誤字脱字が多数あったことに加え、「100年の歩み」用に提供された写真の多くが未収録であったために刷り直すこととなりました。このホームページ上は、印刷コストの制約がないこともあり、《改定版》にも掲載できなかった写真を出来るだけ多く収録しました。

 《改定版》の発行部数は150部とし、第76回総会出席者全員に郵送し旧版(初版)と差し替えてもらい、随筆投稿者のうち総会欠席した方にも新たに郵送いたしました。

 《改定版》の在庫があるうちは希望者に頒布(1冊1,000円)しますので、役員までご連絡ください。

 


「常盤の緑」 東京青木会100周年記念誌(表紙)

    編集後記


令和元年69日に発行された「常盤の緑」は、校正・校閲未了のまま印刷に回されたうえ、最終ゲラのチェックも怠ったもので、執筆者の「言葉」を軽んじた出版物であると断ぜざるを得ず、それゆえ同年811日に開催された理事会において、廃棄することが決定された。

会員の随筆は、米寿から還暦までのシニアたちが、その人生から紡ぎだした「言葉」そのものであり、青木村とのかかわりや思い出や感謝の「言葉」をそれぞれの思いを込めて綴ったものであるから、「言葉」を粗末に扱うような結果となってしまった出版物を100周年記念誌として認めることはできなかったのである。

 

明治22年に誕生した青木村には、誇れるものがいくつもあるが、その一つが「青木時報」である。これは、大正デモクラシーが真っ盛りだった大正10年、青木村の青年会員たちによって発刊された青木村の新聞で、自由律俳人の栗林一石路が初代編集長を務めたことでも知られている。大正10年~昭和36年まで41年間に392号を刊行。青木村の自立性を支え、青木村の文化形成に大きな役割を果たしてきたとされる。

青木時報には「言葉」があり、「言葉」が社会状況を知らせ、筆者の意思を伝え、思想を表現した。「言葉」を発し続けた青木時報は、発禁処分を受けながらも確実に反戦平和の思想を村民に浸透させた。その鋭い呼びかけがあって、青木村は満蒙開拓団を送り出さない数少ない村の一つになったのである。

 

東京青木会は、大正・昭和・平成・令和と100年続いた。あと100年存続する可能性もある。100周年記念誌は、100年後にも残るかもしれないのだ。100年後の子どもたちに「言葉」を伝えられるであろうか。

正しい「言葉」で、未来の子どもたち(もちろん青木村の子どもたちも含めて)にも、いまの私たち(青木村出身の昭和生まれのシニア)の「言葉」を伝えたい。そのために、新たに選任された改定版のための編集委員会は英知を結集して、校正・校閲にあたった。そして、巧拙のレベルを超えたシニアたちの「言葉」そのものを残すことが、後世に恥じることのない記念誌であると信じて、本書を送り出すことにしたのである。

 

 青木村の写真家清水愛子様には、改定版においても多くの作品の転載をお許しいただいた。改めて感謝の意を表します。

また、「100年の歩み」第1章の靑和会・青年部の写真は小山精良氏に提供いただいたことを特記し、お礼申し上げる。

2019年9月12日

                                                                                           《改定版》編集長  櫻田喜貢穂

                              編集委員 宮原 豊 山本修士 小山精良 宮原清明 稲垣正雄 尾和剛一

                                                 


     表紙(裏)

 

 

 

 

 

 

 

 

 表紙写真:表裏ともに清水愛子氏提供



 

東 京 青 木 会

「100年の歩み

目  次 

はじめに

  始まりは禁酒会 ………………………………………………………………...........

第1章 東京青木会の歴史

 1.戦後―若人の集まりから復活 …………………………………………....

 2.再編劇―東京青木会の再結成 …………………………………………....

 3.高度経済成長期の東京青木会 …………………………………………....

 4.平成時代の東京青木会 …………………………………………………........

   ①活動記録の復活 ………………………………………………………...........

   ②再活性化されたと思われたが・・ ……………………………......

   ③役員の若返りと新機軸 ……………………………………………….......

   ④新会場と総会刷新 …………………………………………………….........

第2章 事業の変遷

 1.活発だった「青和会」の活動 ………………………………………….....

 2.東京青木会青年部の活動 ……………………………………………….......

 3.経済高度成長期の活動記録 ……………………………………………......

 4.「総会・集う会」の併催イベントに様々な工夫 ………….....

第3章 最近の活動

 1.平林体制の役員たち ……………………………………………………...........

 2.故郷を巡る旅 ……………………………………………………………...............

 3.青木村への協力~青木村との絆を維持強化するために ……

  ①信州・青木村観光サポーターズ倶楽部への勧誘 ……………….

  ②ふるさと納税紹介 ……………………………………………………...............

  ③青木村出身の若者への世話活動 …………………………………….......

  ④子ども義民太鼓基金 ………………………………………………….............

 4.故郷の歴史同好会 ………………………………………………………............

 5.美術と美食同好会 ………………………………………………………............

第4章 未来への提言

 1.まずは現状認識から始めよう。 ………………………………………....

 2.先人たちの努力 ………………………………………………………….............

 3.できるところから始めよう。 ………………………………………….....

 4.継続は力なり ……………………………………………………………..............

 


 

は じ め に

始まりは禁酒会

 

      始まりは禁酒会東京青木会のルーツをたどれば、大正7年(1918 年)の「禁酒会」まで遡ることができる。

    大正7年は、第一次大戦景気の中で米騒動が起こ り、シベリア出兵が行われ、明治憲法発布30周年、 初の政党政権原敬内閣が誕生した年である。この年、 五島慶太氏(旧姓小林・殿戸出身)らの尽力により、 長野県上小地方の学生に東京での勉学と生活の基盤 を提供するために、上田藩の江戸藩邸(千代田区三 番町)の敷地内に千曲寮が開設された。そこに青木 村出身者も入寮するようになった。

    初代管理人を務めた早川喜八氏(青木村田沢出身) は、千曲寮が開設されるや発起人となって、入寮者 を含む青木村出身者の親睦会をスタートさせた。懇 親会であるから禁酒のはずはないのであるが、あえ て「禁酒会」と名付けたのであろう。東京青木会は ユーモアあふれる「禁酒会」という洒落た名前の親 睦会としてスタートしたと思われる。その後、元青 木村村長の宮原栄吉氏(田沢出身、元全国市町村会 長)や青木村唯一の歯科医師宮原英二氏(田沢出身) も入寮したという。

     禁酒会の親睦会は次第に人を集め、五島慶太氏を 会長とする東京青木会に発展し、年2回の親睦会を 開催するに至った。禁酒会に参加していた山本源重 氏(戦後の第2代会長・入田沢出身)は、「この親 睦会はなかなか楽しいものであった」と述懐してい る(昭和42年度会員名簿の挨拶文から)。「青木村誌」 の編集委員を務めた宮原平八郎氏(田沢出身)は旧 制中学を卒業後(昭和9年)、勉学を続けながら逓 信省に勤務していたが、昭和13年に兵役に就くまで 禁酒会に参加していたと いう。昭和大恐慌以降、 飲み会を大っぴらに開け る世情ではなかったもの の、本格的な戦時体制に 入る昭和10年代半ばまで 禁酒会という名前が存続 していた。しかし、千曲 寮に入寮していた学生も 徐々に戦場に送り込まれ るようになり、戦中・戦後の混乱期は青木会も中断 せざるを得なかった。ちなみに千曲寮は昭和46年に 東京都三鷹市に移り、長野県全体の学生寮となり現 在に至っている。

     ところで、長野県上小地方(上田市と小県郡)に は数多くの市町村が存在していたが、この地方は平 成の大合併で上田市との合併が進み、今では小県郡 には長和町(長門町と和田村が合併)と青木村の2 町村のみとなってしまった。戦前から故郷会が存在 していたのは丸子町、真田町、武石村、和田村と青 木村くらいのものであろう。東京上田会の歴史は浅 く、平成6~7年に結成されたものであるが、さす がに地域の中核都市だけあって人材豊富・多士済々 にして多岐に渡り活発な活動をしている。歴史の長 さだけを誇るわけではないが、東京青木会は上小地 方では最も歴史のある故郷会であることは間違いな い。その100年の歩みを、この戦前の「禁酒会」か ら時代を追って紐解いてみたい。

挿話:20200328 「青木會」の始まり  (第1回昭和7年4月23日、第2回同年11月19日)

     ~大正時代に始まった禁酒会(沿革にリンク)の流れを継いで~

 

                          (昭和七年十二月「上田郷友會」會報より抜粋)

 

(注)本挿話は、元の「100年の歩み」には掲載されていませんが、「禁酒会」から「青木會」設立にかかわる興味深い史料なので、ここに掲載しました。

 

 


第 1 章 東京青木会の歴史

 

1.戦後—若人の集まりから復活

 

 終戦後、義務教育を終えた若者 たちは就職の為に親元を離れ上京 したが、青木小学校の小林明先生 (小県郡田中町出身)は定年退職後 に、青木村出身の教え子たちのそ の後の教育の為に尽くそうと上京、 新宿区初台の斎藤病院事務長に就 いた。ホームシックにかかったり 仕事等で悩んでいた若者たちが自 然に集まるようになったが、小林 先生は若者同士が集まる若者自身 による会の必要性を感じ、その頃 頻繁に出入りしていた当時22歳の 越山寛氏に相談し、同氏を発起人 として「青和会」が結成された。 昭和29年の春から準備し始め、同 窓生と力を合わせて同志を糾合し、 昭和31年6月に会員名簿を作成し たという。最初、名簿に記載され たのは60数名、会員が一堂に集ま ることは容易でなかったものの、 7月1日に第1回「集い」を日比 谷公園の野外音楽堂で開催、参会者14名、会の目的 や運営方針を話し合い、役員を決定、ここに「青和 会」が正式に誕生した。会長は越山寛氏(入田沢出 身、上京前は青木時報編集者の一員)。因みに、小 林明氏と戸恒百合子氏(旧姓高橋、三越勤務)が顧 問に就任した。

 青和会の活動については、第2章で紹介するが、 ハイキング、討論会、座談会、見学会、卓球大会・ バトミントン大会・野球にバレーボール等のレク レーションが、若者たちにより企画され、8月と12 月を除く毎月、何らかの行事が開催された。小山精 良氏(東急ホテル勤務、中挾出身)を編集長として 青和会新聞「ときわ」が発行され、会員間のコミュ ニケーションを図った。小林明先生も毎回行事に参 加され、戸恒さんは役員会の会場の提供など物心両 面で若人を後援されたという。

 

 なお、「青和会」は東京青木会が結成された昭和 35年5月に「東京青木会青年部」となり、その活動 はますます活発になることが期待されたものの、若 者たちは仕事が多忙になり、また結婚する人が増え てくるとともに年々参加する青年部員が減少し、昭 和41年に廃部となった。

 

2 .再編劇—東京青木会の再結成

 

 昭和29年立ち上げられた「青和会」を中核として、 昭和34年に青木村を襲った台風7号を契機として、 「東京青木会」が再結成された。その経緯については、 昭和42年度「会員名簿」に掲載された小林明氏(小 県郡田中町出身、青木小学校教諭を定年退職後、初 台斎藤病院事務長)の挨拶文を引用しながら記述す る。  「昭和34年8月、郷里は7号台風の襲来を受け、 惨憺たる大被害をこうむりました。(青和会は)急 遽、緊急役員会を、続いて臨時総会を開いて、郷土 台風被害情況に対して、応分の醵金をすることが 協議決定されました」。この時に開催された座談会に「多数の先輩青木村出身者が列 席され、青和会が、日々に著しい 向上を見せ、充実した発展に好評 を博し、此の総会に出席された諸 先輩の方々が主体となり、今度は、 全青木村出身者の、親睦と融合を 図る『青木会』へ合併する運びと なりました」と、若者だけの会で はなく大人の会も必要であるとの 機運が盛り上がった。

 昭 和34年12月 に 栗 原 正 毅 医 師 (旧姓尾和・入田沢出身)宅にて 第1回設立準備会が開かれ、山本 源重、山浦稔、秋山三保、富田寅 雄等の諸氏が参会、青和会からは 越山寛会長と小林明相談役が出席、ここで会則案お よび役員案の協議が行われた。その後、35年5月に 代々木駅付近の料理屋で東京青木会再結成直前会議 が開催され、いよいよ「昭和35年5月15日に東医健 保会館において総会が開催され、『青木会』が成立 し、会員名簿が頒布された。そして『青和会』は、『青 木会青年部』として、青木会の会員として、行動を 共にするほか,青年部独自の会則を定め青年修養に 関する各種活動をすることになった」。

 初代会長に栗原正毅氏、顧問には沓掛眞氏、山浦 稔氏、青年部長に田中由治氏が就任、この時点での 会員数は125名であった。会則に従って春秋2回の 総会が開かれ、昭和37年に第2回目の名簿改訂が行 われた。前述の小林明氏によれば「栗原先生は会を 愛し、郷土を愛され、殊に青年部の若人達を激励し、 その指導育成には格別の愛情を寄せられ、誠に有難 い会長であり先輩でありました」が、昭和38年6月 1日に病死された。

 その後、昭和40年に山本源重氏(入田沢出身、印 刷業)が2代目会長に就任、春秋の親睦会を長野県 人会事務所ホール(日本橋室町)で開催した。しか し、再結成されたものの東京青木会は安い総会会場 や役員会会場探しに毎回翻弄され、例えば道玄坂で 遠州屋酒店を経営する市野丈計氏(後の副会長・中 村出身)の紹介で渋谷の信用金庫2階を借りて数回 開催したが、そのうち日曜日は使用不可となり、そ れから毎回会場探しに苦労し、それは役員会を平成 10年に鮒忠東上野店に、総会を平成13年に上野公園 内の“グリーンパーク”に固定するまで続いた。

 昭和42年4月1日にまとめられた会員名簿は活版 印刷の本格的なもので、小林明氏による卒業生名簿 チェックや青木村宮原村長・北村助役の協力による 青木村出身者名の確認により、600余名の名前が収 録された。「昭和42年会員名簿」には山本会長、宮 原栄吉村長、小林幹雄顧問ならびに小林明副会長の 挨拶文が掲載されている。発行費用は名簿に掲載さ れた広告収入で賄われた。山本源重会長は、この立 派な会員名簿発行を花道に退任された。

 

3 .高度経済成長期の東京青木会

 

 昭和42年6月、第2代山本源重会長の後を第3代 会長秋山三保氏(中村出身)が引き継ぎ、昭和60年 6月まで何と18年にわたって会長を務められた。そ の間の昭和50年7月1日に8年振りに会員名簿が再 版されたという記録がある。日本経済は高度成長期 を迎え、人々が多忙になってきたことは想像に難く ないが、途中で会員名簿を発行していることからも、 何も活動していなかった訳ではないことがわかる。 第2代山本会長の3年間は、春と秋の親睦会を日本 橋室町の長野県人会事務所ホールにて開催、盛会で あったとのこと(「昭和42年会員名簿」発刊に寄せて) であるから、おそらく第3代秋山会長の時代も毎年、 総会・懇親会が開催されて、回を重ねてきたのであ ろう。

 そして、「バブル期」と重なる昭和60年6月~平 成元年6月には第4代会長に富田寅雄氏(青木出身)が就任しているが、 この時期も活動記録 が残されていない。

 秋山会長と富田会 長の23年間は、東京 オリンピック(昭和 39年)が終わっても なお、好景気に沸い ていたころから始ま り、著しい経済成長 を遂げた輝かしい時 期であり、バブルの絶頂期を迎えるまでの間であっ て、さぞ華やかな活動がなされたと思いきや、活動 記録はまったく残されておらず、その間の実態は不 明であるというほかない。

 「100年の歩み」の執筆担当者は、現在の長老会員 にインタビューを試みたが、昭和42年6月~平成元 年6月の東京青木会を語れる人はいなかった。「青 和会」「青木会青年部」で活躍し、昭和42年に「東 京青木会」の最年少理事に就任した小山精良氏(昭 和11年生・平成16年に第8代会長に就任)において さえも、ちょうど働き盛りであったことから、この 間だけは参加できなかったとのことである。現会員 の最年長である丸山光繁氏(昭和6年生 沓掛出身) も、この間は現役の公務員であったため、まだ参加 するには至っていない。

 平成元年第5代会長に就任した若林直人氏(入田 沢出身)が平成7年発行の会員名簿の冒頭あいさつ の中に、この間のことについてわずかに記している。 「・・・この名簿(昭和42年版)に初めて載せてもらっ たこともあって、山本会長から役員会に顔を出すよ うに勧められ、それ以来不肖私は、この会に引き続 きお邪魔している次第であります。そして毎年の催 し計画にも参加させられ・・・名簿の改定が決まり、 名簿収集のみ私が引き受け、他の役員は広告収集に 当たりました。それが昭和50年度(1975)再版(黄 緑色の表紙)となったわけで、それ以来改定の声は あるものの実現しませんでした」。そして、時代を 下って平成7年第3版の発行となる訳である。これ が第3代秋山会長時代と第4代富田会長の時代にも 東京青木会の活動が続いていたことを示している。

 しかし、100年のうちの23年間というのは決して 短い期間ではない。ましてや高度経済成長を遂げた 時期であり、バブル経済が崩壊する前の輝かしい時 代である。この時代の参加者が一人も見つからない ことは、東京青木会のミステリーである。

 

 

4 .平成時代の東京青木会

 

①活動記録の復活

 第3代会長秋山三保氏(昭和42年6月~昭和60 年6月)、第4代会長富田寅雄氏(昭和60年6月 ~平成元年6月)の時代の活動記録は少ないが、 東京青木会の活動は継続され、第5代会長若林直 人氏に引き継がれた。

 若林会長時代に特記されるべきことは、平成5 年8月1日に開催された第50回記念総会である。 葛飾レインボーホールを会場として、宮原毅村長 の臨席のもと80余名の参加者を得て第50回記念総 会が開催された。総会会場は、翌年も葛飾レイン ボーホール、その後2回はJR有楽町駅付近の交 通会館内の都職員会館食堂で開催された。その後 は若林会長の同級生横沢節子さんの紹介で都庁近 くの小料理屋「一心」で2回、各部屋や廊下に分 散しての総会であったそうだ。役員会は経費節減 のこともあり平成3年から3年間は越山氏宅で 行ったことがある等々、総会と役員会の場所で苦 労した時代が長く続いた。役員会は平成10年から 副会長嶋形佳人氏の紹介により鮒忠上野店で開催 され、平成20年まで定着した。会員名簿は20年間 発行できなかったが、平成7年9月に名簿第3版 が発行された。ここに至り再び活性化の兆しが見 え、名簿には627名が収録されているが、これは 越山寛理事(青和会創始者)の尽力に寄るところ が大きかった。

 第5代若林会長の死亡に伴い、第6代会長に77 歳の神楽三男氏(細谷、ハローワーク事務官)が就任。神楽会長は高齢のため平成9年12月~11年 6月と短期であったが、次に第7代会長として嶋 形佳人氏(入田沢、設計事務所経営)が就任し、 平成11年6月~16年6月まで務めた。副会長に田 島きぬ子、越山寛、小山精良の3氏が選任された が、かつて青和会・青年部で活躍された越山氏や 小山氏の副会長就任により、東京青木会の若返り が注目される。総会は、平成13年から横沢和子さ ん(節子さんの妹)の紹介で上野公園内のレスト ラン「グリーンパーク」で開催され、その後平成 28年までここに定着した。会員名簿は平成12年 (246名登録)、平成14年(246名)、平成16年(235 名)と発行され、この販売代金(1冊1000円)で 運営がいくらか安定したという。

 

 

②再活性化されたと思われたが・・・・

 前述の通り、平成11年第7代嶋形会長が就任し た時に、かつて青和会、青木会青年会を担った越 山寛氏や小山精良氏が副会長に就任し、その後平 成16年には小山精良氏が第8代会長に就任(平成 11年6月)し、ようやく安定期に入ったかの見え た東京青木会ではあるが、昭和35年の東京青木会 再結成時の青年部会員であった若人達の老齢化が 進み、急に総会参加者数が減少していった。参加 者数の急減は、会員の老齢化が一因ではあるが、 実は新会員の勧誘が困難になってきたことがもっ と重要な原因であると考えられる。 それには次のような理由があると思われる。

 一 つは、若人の個人主義的傾向が強くなったことや プライシー尊重の風潮が広まったことがあると考 えられる。次に、平成15年に成立し、2年後の平 成17年から全面施行された個人情報保護法によ り、青木小中学校から卒業生名簿の入手が不可能 となり、青木村当局から関東在住者に関する情報 も得られなくなったために、勧誘に支障が生じた のである。勧誘が困難になったことは、一般に「故 郷会」の運営上の新たな悩みとなり、東京青木会 としても新会員勧誘の手段が相当に狭められた。

 総会参加者は、平成14年(2002年)45名、15年 (2003年)53名、16年(2004年)49名、17年(2005年) 53名、18年(2006年)54名、19年(2007年)51名、 20年(2008年)58名と、この7年間は平均50名以 上を維持していたが、21年(2009年)には37名に 減少し、危惧すべき事態に追い込まれた。

 

③役員の若返りと新機軸

 このような中で、平成21年12月の役員会で当時 最年少理事であった高橋福幸氏が第9代会長に選 出され、さらに22年6月の総会で新理事9人が就 任し、新体制が発足した。 新体制による会運営の主な改善点は、①名簿の 大幅見直し、②パソコン活用による名簿管理と名 簿作成経費削減、③新会員確保のために総会にミ ニ同期会方式を導入すること、④広報・宣伝によ る知名度向上(広報あおき、東信ジャーナルの活 用)、⑤「故郷を巡る旅」を開始、⑥東京青木会 のホームページの開設である。 「故郷を巡る旅」は平成23年10月に第1回(担当: 尾和剛一理事)を開催し、その後も回を重ね、平 成30年10月に第7回を実施。ホ―ムページは平林 秀明理事の尽力により平成25年末にスタートし、 必要に応じて更新されている。

 平成25年(2013年)6月には上野公園内グリー ンパークで第70回記念総会・青木村出身者の集い が開催された。青木村から井古田嘉雄総務課長、 東京上田会から山嵜斎明会長など来賓をお迎え し、68名の参加者数を得て盛大に開催された。事 業活動関係では、故郷を巡る旅の2回目の報告と 第3回の企画が発表され、東京青木会ホームペー ジの開設について報告され、今後の東京青木会の 活動について情報発信する上で大きな役割を期待 されることとなった。特別イベントとして、上田 出身の真打落語家三遊亭鬼丸師匠の歯切れのよい 軽妙洒脱な落語を楽しんだ。その後は、村歌「と きわのみどり」、県歌「信濃の国」、「ふるさと」 を合唱した。

 ちなみに平成24年の名簿登録会員数は310名、 6月の総会開催案内状の送付は188名、返答者数 は144名、総会参加者数は65名であった。平成25 年(2013年)第70回記念総会の参加者は68名、平 成26年(2014年)第71回52名、平成27年(2015年) 第72回78名、平成28年(2016年)第73回59名、平 成29年(2017年)第74回63名、平成30年(2018年) 第75回63名と一定のレベルの参加人数を維持して いる。最近では第72回の参加者が多いが、他の年 は概ね60人台で一定水準を維持しながら推移して いる。

 新しい活動としては、平成27年(2015年)の第72回総会で第10代会長尾和剛一氏(昭和17年生、 中挾)の提案で「故郷の歴史同好会」が発足し、2ヶ 月後の8月には第1回目の同好会が開催され、そ の後も継続している。

 

④新会場と総会刷新

 平成28年(2016年)6月第73回総会で第11代会 長に平林秀明氏(昭和19年生、入田沢)が就任し、 翌平成29年(2017年)の第74回総会の会場を「グ レースバリ上野店」(パセラリゾーツ上野公園前 店2階)に変更した。平成13年の総会から16年間 にわたり安定的に使用してきた上野公園「グリー ンパーク」に代わる会場を探すのはかなりの困難 が予想されたが、大部屋を衝立だけで左右に隔て られた会場は隣からの騒音が大きすぎて総会運営 上で不都合が生じているため、新会場を探すこと が平林体制の最初の課題となった。なかなか適当 な会場が見つからない中で、平林新会長の英断に より上記に会場を変更することになったわけであ る。

 この年の総会から、平林新会長の方針として、 「総会」の報告や承認事項に割く形式的な時間を 極力短縮し、会員相互の懇親時間を長めにするこ とになった。この時に小林慶三理事と平林会長の 提唱により新たに「美術と美食同好会」が発足し た。

 平成30年(2018年)第75回総会もグレースバリ 上野店で開催、そこで「東京青木会創立100周年 記念文集」をまとめる事が提起され、翌2019年6 月の第76回総会までに完成させ、同総会で配布す ることを目指して準備に取り掛かることになっ た。

 会員としての義務(年会費)がある訳ではなく、 基本的にこの会は毎年・毎回の自由参加で成り 立っている。「総会・集う会」に集うことのメリッ トは、経済的なものは何もないので、精神的に何 か得るもの、魅力のあるものが何かなければ継続 しない。それは「絆」というほど強いものではな いが、「愛郷心をベースとした心と心の心地よい 空間と時間を共有することである」と考えられよ うか。そのために「故郷を巡る旅」、「故郷の歴史 同好会」、「美術と美食の同好会」などの東京青木 会の活動や同好会活動を通じて親しく楽しい人間 関係が形成されるように新機軸を立ててきた。

 


第2章 事業の変遷(時代の変化に対応してどのような活動がなされてきたか)

 

1.活発だった「青和会」の活動

 

 東京青木会青年部の前身「青和 会」は「越山寛君の肝煎りで結成 された『若人の集まり』でした。 昭和29年の春から運動を始め、同 窓の諸君と力を合わせ(略)東奔 西走、同志を糾合し、苦心して昭 和31年6月に会員名簿ができま した」(前出昭和42年度「会員名 簿」小林明氏から引用)。名簿に 記載されたのは60数名、各職場の 条件等が異なるので会員が一堂 に集まることは容易でなかった ものの、7月1日に第1回「集い」 を日比谷公園の野外音楽堂で開催、参会者14名、会 の目的や運営方針を話し合い、役員を決定、ここに 「青和会」が誕生した。会長は当時22歳の越山寛氏 (入田沢出身)。因みに、ここで小林明氏と戸恒百合 子氏(旧姓高橋、三越勤務)が顧問に就任された。

 「会の行事が次々に計画され、ハイキングに討論 会、座談会・見学に、レクレーションで、卓球大会・ バトミントン大会・野球にバレーボール等(略)、 楽しい催しだった」(小林明氏)。戸恒さんは役員会 の会場の提供など物心両面で若人を後援されたとい う。

 同じく小林明氏の挨拶文の中から引用するが、「昭 和32年春のハイキングには、野猿峠の踏破コースが 計画され、一行11名参加、ゆうべの雨に洗われた、 清々しい若芽萌える新緑の峠道を、互いに語りつつ、 共に歌いつつ、バレーボールなどをしたりして、さ ながら青木三山の山野でも行くような、故山を偲び ながらの、楽しい、春の一日の行楽を満喫したので あります」と、当時の様子が生き生きと伝わってく る。その後も筑波山・弘法山・正丸峠・伊豆岳・中 津川渓谷等と計画され、故郷の山々を思い起こし、 明日への英気を養い、再会を期待し、毎回最後に「と きわのみどり」を歌ったという。

 

2 .東京青木会青年部の活動

 

 青和会新聞「ときわ」の編集長・小 山精良氏(東急ホテル勤務、中挾出身) が、青木会青年部長として、昭和36年 10月4日に発刊した会報「ときわ」(第 2刊)の「ときわ発刊を機に青年部に 望む」を要約、引用し次のとおり紹介 する。

 「5周年を迎えますます盛んな青和会 も、全青木村出身者により組織される 青木会に大編成され、青和会は青木会 青年部となったが、活動内容は今まで と変わりないものとし、年頭の総会で 立てた年度活動の方針で盆の8月と暮 れの12月を除き毎月1回は活動する」ことが謳われている。そして、「青和会6周年目に 青木会として新たにスタートできたのだから、この 機会に青木会をもっと盛り上げられるように青年部 の奮闘を望む」と結んでいる。

 この時の「ときわ」を読むと、5月に銀座で本場 のフランス料理に慣れない手つきでナイフとフォー クを使いながら青木会親睦会が開催されたが、青年 部メンバーは祖父母ほども年齢差のある青木会会員 に最初は戸惑いながらも故郷の話題に次第に打ち解 けていく様子が報告されている。青和会が青木会青 年部となって老若男女が交流する様子が興味深い。 その隣に「洋食への招待」として洋食のテーブルマ ナーについて詳しく紹介されているのが啓蒙的で面 白い。「ときわ」の中で小山氏は、青年部の活動内 容を教養面に広げて、討論会、美術鑑賞を企画した が、参加者が少なく、ハイキング・卓球・バトミン トンに多数の参加者を得ることとなったとしてい る。さらに裏面には、国立西洋美術館見学、顔振峠 黒山三滝ハイキング、バトミントン大会、討論会「勤 労と現代の青年のあり方」、卓球大会、船橋海岸で 汐干狩と、レクレーションと教養の両方で活発な活 動が行われたことに加え、青和会時代を支えた先輩 3人の結婚の報告が掲載されている。  しかし、若者たちの結婚とともに年々参加する青 年部員が減少し、昭和41年に、東京青木会青年部は 廃部されたという。

  

3.経済高度成長期の活動記録

 

 第1章3項でも書いたが、第2代山本源重会長の 後の青木会の活動は多くは記載されていない。第3 代会長秋山三保氏(中村出 身)と第4代会長富田寅雄 氏(青木出身)の時代の活 動記録は少ないが、昭和50 年7月1日に8年振りに会 員名簿を再版された。

 第5代会長若林直人氏(入 田沢出身)の時代に開催さ れた第50回記念総会の時に、 20年間発行できなかった会 員名簿の再編は必至である との声が強くなり、平成7 年9月に名簿(第3版)が 発行された。この名簿には627名が収録されている。

 この会員名簿の冒頭あいさつの中に、高度成長期 の活動に関する若林会長の証言がある。

 「昭和42年の名簿に初めて載せてもらったことも あって、山本会長から役員会に顔を出すように勧め られ、それ以来不肖私は、この会に引き続きお邪魔 している次第であります。そして毎年の催し計画に も参加させられ、当時の渋谷の信用金庫4階ホール も、そのうち日曜日の使用は不許可となり、福祉会 館なりを転々とするうち、名簿の改定が決まり、名 簿収集のみ私が引き受け、他の役員は広告収集に当 たりました。それが昭和50年度(1975)再版(黄緑 色の表紙)となったわけで、それ以来改定の声はあ るものの実現しませんでした」。そして、この後に 平成7年の第3版の発行となる訳であるが、今では この証言が第3代秋山会長~第4代富田会長の時代 に関する数少ない証言となっている。

 

4.「総会・集う会」の併催イベントに様々な工夫

 

 そのような中で、新機軸を打ち出す必要があると して、平成20年の総会から小講演「郷土を語る」シ リーズを行うこととなった。第1回目の講師は提案 者の高橋福幸氏による「修那羅峠の語源」。平成21 年12月の役員会で当時最年少理事であった高橋福幸 氏が第9代会長に選出され、総会で新理事9人とと もに新体制を発足させ、様々な新しい試みがなされ たが、「郷土を語る」シリーズは21年「野球殿堂入 り村民宮原清氏」(講師:宮原清明氏)、22年「義民 の里青木村」(講師:小林慶三氏)、23年「青木村の 義民の伝統」(講師:横山十四男氏)、24年「東京青木会の歩みについて」(講師:越山寛氏)、26年「ま すや旅館に宿泊した有名人」(講師:宮原豊氏)と 続き、28年の小講演会「熟年世代の法律問題・一言 アドバイス」(講師:櫻田喜貢穂氏)の後は休講となっ ている。その後は後述するが、「集う会」の併催イ ベントとして会員と関係者による音楽演奏会を開催 している。

 平成28年に第11代会長に就任した平林秀明氏は翌 年平成29年(2017年)の第74回総会から場所を「グ レースバリ上野店」(パセラリゾーツ上野公園前店 2階)に変更した。

 ここ数年の新入会員の推移を見ると、第73回5人、 第74回5人、第75回4人と新しい人が順調に加入し ている。少子化傾向の中、様々な工夫がなされてい ることが効果をもたらしていると言える。その一つ が集う会・総会を盛り上げる出し物(併催イベント) であるが、第70回記念大会では特別に郷土出身の真 打落語家の落語会、第73回と第74回の総会では2年 続けて“元流しのギターリスト”橋詰幸夫氏(中村出 身、湯島で「味の上田」経営)を中心として友情出 演したメンバーによる軽快な音楽演奏会、第75回総 会は副会長・岡田敦子さん(当郷出身)の所属する 琴教室のお師匠さんと生徒さんによる豪華で楽しい 琴演奏会と工夫している。

 第72回は出席者が78人と最近では最大の出席者数 を記録しているが、これは昭和23年以降に生まれた 若手が初参加したことが人数増の一因であった。こ の時に初めて参加した人で、第73回、第74回、第75 回にも継続して参加してくれた人は決して多くはな い。

 年間を通しての事業としては、「故郷を巡る旅」 と2つの同好会①「故郷の歴史同好会」、②「美術 と美食同好会」が回を重ねているが、実はどの集ま りも参加者は同じようなメンバーとなっており、今 後いかに若い世代を加えていくかが大きな課題と なっている。せっかくの集う会・総会であるから、 新たに参加した人がその後も毎年継続して次の年、 あるいはその次の年の総会や「故郷を巡る旅」や同 好会に参加したいと思われるような楽しい会にして いきたいものである。

 

 

第73回・第74回はギター演奏

第75回 琴の演奏会


第76回「常盤の緑」投稿文の朗読された方々(参考)



 第3章 最近の活動

 

1.最近の活動を担う現役員は以下の通りである

(平成30年6月10日第75回総会において選任された)

 

会長理事   平林秀明   昭和35年卒

副会長理事  岡田敦子   昭和35年卒

副会長理事  櫻田喜貢穗  昭和38年卒

副会長理事  宮原 豊   昭和39年卒

会計理事   山本修士   昭和41年卒

理事     尾和 弘   昭和33年卒

理事     早川卓武   昭和35年卒

理事     深見晴恵   昭和39年卒

理事     沢村良江   昭和39年卒

理事     山本啓二   昭和44年卒(新任)

理事     河村奈央   昭和36年卒(新任)

監査正    宮原清明   昭和32年卒

監査副    稲垣正雄   昭和33年卒

顧問     高橋福幸   昭和32年卒

顧問     小林慶三   昭和32年卒

顧問     尾和剛一   昭和33年卒

2.故郷を巡る旅

 

 東京青木会では「故郷を巡る旅」を平成23年より 実施し、これまでに 7 回開催している(平成25年は 台風襲来の為、中止)。紀行文は東京青木会のホー ムページに掲載されている。

 

 第 1 回(平成23年)東山道を歩く

 第 2 回(平成24年)義民太鼓に誘われて

 第 3 回(平成26年)十観山と修那羅の石仏

 第 4 回(平成27年)真田三代と中学校

 第 5 回(平成28年)村上義清と小学校

 第 6 回(平成29年)青木3峠と村内名所

 第 7 回(平成30年)ダッタンそばとタチアカネ

 

宿泊先は青木村の田沢温泉及び沓掛温泉としてい る。

① H.23.11. 2 ~ 3 田沢温泉/富士屋

② H.24.11. 2 ~ 3 田沢温泉/和泉屋旅館

③ H.26.10.18~19 田沢温泉/ますや旅館

④ H.27.11.18~19 沓掛温泉/おもとや旅館 (現在の満山荘)

⑤ H.28.11.12~13 田沢温泉/富士屋

⑥ H.29.11.18~19 田沢温泉/和泉屋旅館

⑦ H.30.10.13~14 田沢温泉/富士屋

 

 故郷を巡る旅がスタートする事になった経緯は、 平成23年当時、理事会等で少年少女の時代にお世話 になった青木村に対し、東京青木会と して今後の村の活性化、産業振興への 提言等を行いたいとの機運が生まれ、 その為にはまず青木村の現在を知る必 要があるということで故郷への旅の企 画が生まれた。当時の高橋会長が宮原 毅村長と打ち合わせの機会を設けて、 旅の実施にあたり移動手段(マイクロ バス)等は村から全面的バックアップ をして頂ける事となり、平成23年秋よ りスタートした。

 故郷を巡る旅の参加者は現在の故郷 (上田小県、青木村)の姿、そして史 実を伝える名所・旧跡の数々を訪ねて懐古の情に浸り、そして懇親会の席等では村長から 最新の青木村の状況及び展望をお聞かせ頂き、故郷 を応援する気持ちを高めている。

 また旅の案内の行程に於いては青木村役場の担当 責任者や沓掛貞人様には大変お世話になっている。

 今後も毎年秋の時期にこの故郷を巡る旅を引き続 き開催して行く予定であるが、近年は参加者の高齢 化等もあり、歩いて巡る旅は困難になっているよう だ。

 青木村の観光活性化及び財政活性化の観点から観 光サポーターズ倶楽部への入会促進、ふるさと納税 の呼びかけも行い、旅を通じて総合的に青木村を応 援していきたい。

 

3.青木村への協力~青木村との絆を維持強化する ために

 

①信州・青木村観光サポーターズ倶楽部への勧誘

 平成25年(2013年)10月に青木村ファン・クラ ブとして設立された信州・青木村サポーターズ倶 楽部を東京青木会として側面的に支援する活動で ある。

 同倶楽部は、青木村の豊かな自然や歴史文化を はじめとする地域資源を広く発信し、実際に青木 村に来て、観て、体験してもらうことで、青木村 の認知度を高めるために協力してもらうことを目 的にして青木村を応援する有識者により設立され たものである。青木村から同倶楽部への協力要請 があったのに応え、遠く故郷・青木村を離れて生 活する東京青木会メンバーにとっても故郷への格 好の貢献活動になるとして、協力しているもので ある。

 東京青木会が総会で具体的に勧誘を始めた第73 回総会(平成28年)には20名以上、74回総会(平 成29年)には19名、75回総会(平成30年)には10 人が入会。今後は、青木生まれの者だけでなく、 対象を会員の家族等の近縁者にも広げていくこと にしている。入会は無料、青木村に縁がある、青 木村が好きだというだけで、入会すれば地域消費 券(村内だけで使える商品券)がプレゼントされ るお得な倶楽部であり、参加しない理由は全くな い。今後とも協力していきたい。

 

②ふるさと納税紹介

 

 2015年の税制改革による「ふるさと納税制度」 で、自分が応援したいと思う自治体に対し、より 簡便に納税(寄付)することが出来るようになっ た。ふるさとに寄付で貢献しながら、返礼として 特産品や名産品がプレゼントされ、それが地域の 特産品や名産品の振興の一助ともなり、さらに寄 付した金額は自分の住居で納付した税金から控 除・還付される仕組みであるから一挙三得の大い に注目される制度である。

 東京青木会は総会等の場に於いて、青木村への 「ふるさと納税」を促すために会員に本制度を紹 介している。ふるさと納税は個々人の自由な判断 によるものなので、東京青木会として目標人数や 目標額を設けているわけではないが、後方支援は 故郷・青木村への具体的な貢献活動として、大変 意味があるものである。

 

③青木村出身の若者への世話活動

 

東京青木会の会員は比較的高齢者が多く、関東 各地に広がっているので各地の事情に明るい。そ こで、関東・東京で生活を始めた青木村出身の若 い人たちの相談相手となることを目的に、東京青 木会役員を相談窓口とするネットワークを構築し た。就職相談、住宅さがし、トラブル解決等々、 相談窓口として少しでも役に立ちたいと考える。 いつでも連絡窓口を開けている。これは平成28年 (2016年)から実施している。

  

④子ども義民太鼓基金

 青木村に育ったわれわれは、子どものころから 「夕立と一揆は青木から」というフレーズを耳に してきた。世直し(改革)や不正の除去のために 犠牲をいとわず権力に立ち向かった精神性は青木 村に生き続けており、故郷を離れてみるとますま す、百姓一揆と義民の里という言葉が青木村を象 徴しているように感じられる。それゆえであろう、尾和剛一会長当時、役員会において、青木村との 絆の維持強化の観点からの活動アイディアの提案 要請がなされたが、その際、保育園に子ども用の 太鼓を贈呈する計画「義民太鼓基金」が提案され、 役員会および総会において承認された。

 贈呈先が保育園になったのは、青木村の保小中 一貫教育の素晴らしさと義民太鼓の演奏に会員が 感動したからである。

 すでに基金は予定額に達しており、当会の担当 者(櫻田副会長)と青木村担当者(保育園長若林 喜信氏)との間で贈呈計画の具体化が進められて いる。2019年の第76回総会時に贈呈予定である。

 

4.故郷の歴史同好会

 尾和剛一会長(当時)の発案により平成27年(2015 年) 6 月の総会で提案され、 8 月から活動を開始し た。3ヶ月に1回のペースで、基本的に土曜日の午後 3時~6時に、美味しい料理と少々のお酒を潤滑油に、 青木村の歴史・人物を探索し、毎回故郷への思いを 自由に語って楽しく過ごし、それで元気を取 り戻すことを目的にしている。

 「歴史研究会」ではなく、あくまでも「歴史 同好会」であり、毎回10名から15名が参加し ているが、いつでもどなたでも気楽に参加で きる楽しい同好会である。

 今 ま で 3 年 間(2015年 8 月 ~2018年12月 ) に14回開催したが、第1回から15回までのテー マと発表者を紹介する。

 

第 1 回(2015. 8 . 1 )  「準備会議~運営方針等を相談」(10人)

第 2 回(2015.10.12)  「満蒙開拓団と青木村」(櫻田喜貢穗氏)(11人)

第 3 回(2016. 1 .23) 「青木精神と歴代村長の系譜~小林直次郎氏の影響」 (小林慶三氏)(13人)

第 4 回(2016. 5 .14)  「当郷が青木村に合併した背景」 (山本修士氏)(11人)

第 5 回(2016. 7 .30)  「子供時代の思い出と同級生たち」 (丸山光繁氏)(12人)

第 6 回(2016.11.26)  「青木村の養蚕業」(尾和剛一氏)(12人)

第 7 回(2017. 2 .25)  「日本の生糸貿易と横浜港発展の歴史」 (宮原豊氏)(12人)

第 8 回(2017. 5 .20)  「自分の健康法」(沢村良江さん)(10人)

第 9 回(2017. 9 .16)  「青木村の成立」(尾和剛一氏)(15人)

第10回(2017.12. 2 )  「二線路の開通(交通と通信)」(尾和弘氏)(10人)

第11回(2018. 3 . 3 )  「『千曲川のスケッチ』と島崎藤村」 (小林慶三氏)(11名)

第12回(2018. 7 . 1 )  「分教場の頃の思い出と青木村の教育」 (山口操さん)(11名)

第13回(2018. 9 .22)  「長野県人のルーツ」(高橋福幸氏)(11人)

第14回 (2018.12. 8 )  「民話と青木村」(宮原清明氏)(10人)

第15回(2019. 2 . 9 )  「上田はなぜ『蚕都』になれたのか」 (尾和剛一氏)( 9 人)

 

 テーマに基づく発表は15分から長くても30分、後 はその日のテーマに関連して、あるいはテーマから 離れて自由に故郷にまつわるあれこれ歴史よもやま 話。場所は橋詰幸夫氏(中村出身)の経営する湯島「味 の上田」に固定している。橋詰氏には、同郷のよし みに甘えての出血サービスに感謝。時に、青木村特 産の「タチアカネそば」や信州の地酒が供され、和 やかな会話がさらに盛り上がる。

 「この会に参加して自分の知らなかった故郷・青 木村の過去・現在を知り、また子供時代のことを思 い出し、そして故郷を発ったその日その時に思いを 馳せ、今の自分の立ち位置を発見することに繋がっ ていると感じる」。(宮原豊・39年卒)

 

5.美術と美食同好会

 平成29年(2017年) 6 月第74回総会において、小 林慶三理事、平林秀明会長の発案により「美術と美 食同好会」の発足が発表され、年 3 回ペースで昼時 に開催されている。

 目の保養をして、美味しいものを食し、美術と美 食の感想を述べ合いながら、美術の余韻に浸るとい う何とも贅沢な数時間を共有する同好会である。

 2017年7月~2019年 3 月の間に 6 回開催されてい るが、第1回から 6 回までの観賞+美食のリストは 次のとおりである。

 

第 1 回(2017. 7 .30)(東京都美術館) 「ボストン美術館の至宝展」 上野公園 内の韻松亭で花籠膳賞味  

 

第2回(2017.10.29)(東京都美術館) 「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」 過門香上野バンブーガーデン店 中華料理ラ ンチコース

 

第 3 回(2018. 2 .18)(すみだ北斎美術館) 「Hokusai Beauty~華やぐ江戸の女たち~」 +常設展   Miagolare(ミャゴラーレ)=イタリアン

 

第4回(2018. 7 . 8 )(国立新美術館) 「ルーブル美術館展 ルーブルの顔」 東京ミッドタウン だし茶漬け  えん

 

第5回(2018.10.28)(国立西洋美術館) 「ルーベンス展―バロックの誕生」 音音 上野バンブーガー デン店=和食ランチ

 

第6回(2019. 3 .10)(東京 都美術館) 「奇想の系譜展」 土古里=韓国風焼肉 

 

 毎回、小林慶三さんと平 林秀明さんによって企画さ れるが、会費はリーズナブ ルであり、満足度は相当高 い。参加者は毎回12名前後 であるが、もっとにぎやか になってもいいだろう。

 それにしても、美術はい くつになっても刺激的であ る。葛飾北斎の迫力は日本 画の域を超えており、魂を 揺さぶる。ヨーロッパの画 家たちが驚嘆するのもうなずける。70を過ぎてからがほんとの仕事であるという 生き様も勇気を与えてくれる。

 王の画家にして、画家の王ルーベンスにはたまげ た。画がでかいうえに、裸体が超肉感的なのである。 ルーベンスが描いた小さな画を弟子たちが工房で巨 大化させるのだという。なるほど、そういうことか と思った絵が、「マルスとレア・シルウィア」。軍神 マルスが巫女のレアに懸想し、迫っている場面が描 かれているのだが、ルーベンス筆の小品ではマルス の欲情とレアの困惑と恥じらいの表情が生々しい。 ところが、巨大化された作品の方にはそうした生々 しさが見られないのだ。大きければいいというもの ではないのだ。が、やはりでかいのはそれだけで迫 力がある。

 先日鑑賞したばかりの「奇想の系譜展」。江戸時 代の奇想画家 8 名の奇怪な傑作がこれでもかといわ んばかりに迫ってきて、へとへとになった。幻想的 で、グロテスクで、煌びやかで、おどろおどろしく て、哀しくて、夢を見ているようで、日本人がこん なに多彩な筆致で描けるなんて!伊藤若冲は幻想的 で華麗であったが、狩野山雪の梅の老木の奇矯な枝 ぶりと岩佐又兵衛の恨みがこもった絵巻物はなんと も怖かった。  さて、美食(昼食)は、上野恩賜公園内の韻松亭 の花籠膳に始まり、中華、イタリアンと続き、だし 茶漬けを経て、和食の御膳に戻ったのだが、高齢者 のランチに相応しいラインナップが続いており、毎 回ビールが美味しい。そろそろフレンチとワインを 期待する向きもあるが、今回の「奇想の系譜展」の 後は韓国風焼肉で山形牛に舌鼓を打った。次はどん な美術と美食の会が企画されるのであろうか。(櫻 田喜貢穗・38年卒)

写真:第 1 回 「ボストン美術館の至宝展」(東京都美術館)の後、上野公園内の「韻松亭」の昼食会


 

 

 

第 4 章 未来への提言

 

 創立100周年を迎えた東京青木会、次なる100年を 見据えて、東京青木会を維持・発展させていくため に、われわれはどのように考え、何をなすべきか。

 1.まずは現状認識から始めよう。

 参加会員の高齢化が顕著であり、若手会員数が伸 び悩んでいる。

 いくつかの原因があろう。確かに、かつて先駆け となって結成された「青和会」や「東京青木会青年 部」として活動した時代には、東京青木会は隠居し た年寄りの会ではなかった。故郷・青木村を出てき て、それぞれ別々に仕事し生活しながら横にネット ワークを広げて、自分たちの存在を確認し、時に慰 め合い、時に叱咤激励し、時に社会のことを勉強す る若者の会だった。

 しかし、若者の会も、青和会を創設した若人達が 家庭を持ち、仕事で多忙を極めるようになると、活 動は年下の若人達に引き継がれず、かなり早い時 期(昭和41年)に廃部に追い込まれた。若人の自由 で自律的な運動が次世代に受け渡されなかったこと は、東京青木会の会員の高齢化を招来する遠因と なった。

 しかも、高度経済成長期以降、若者の個人主義的 傾向が強くなり、同時に社会の中でプライバシー尊 重の風潮が広まり、追い打ちをかけるように平成17 年から全面施行された個人情報保護法により、青木 小学校中学校から卒業生名簿の入手が不可能となる など、新会員勧誘の手立てが狭められた。

 学校や役場から情報を得ることが出来なくなった こともあり、後輩たちへ広くアプローチするには 様々な工夫が必要であったが、せっかく参加勧誘の メッセージが届いても、それに対し、多少なりとも 当会の事情を知る者は、「自分はまだ若いから、定 年退職してから参加します」などといって断り、ま た初参加の何人かからは「こんな会とは知らなかっ た」と言われ、その次の総会からは参加してもらえ なかった。「こんな会」とは、想像するに「自分た ちはまだ若い(40代、50代)、そんな年長者・老人 の会に来るべきではなかった。来ても面白くなかっ た」ということであろう。いずれにしても「東京青 木会」は隠居した年寄りの集まりと認識されている ようである。

 

2.先人たちの努力

 こうした中で、先人たちは東京青木会を魅力ある ものにすべく努力を積み重ねてきた。

 平成22年(2010年)に就任した第 9 代高橋福幸会 長や新理事のもとで、新会員確保のために「総会に ミニ同窓会方式を導入する」との方針が打ち出され た。これは中学の同学年生が総会に集い、ミニ同窓 会のごとく楽しもうという発想である。このアイデ アは一定の効果をあげた。昭和11年生まれの会員は 小山精良氏を中心に大勢集い、昭和16年生まれの会 員(高橋会長の年度)も結集して、東京青木会の中 核を担い、今まで活発に活動してきた。今もその財 産があるから東京青木会が継続可能になっていると 言える。そして、高橋会長時に話し合われたいくつ かの改革は実行され、中でも「東京青木会ホームペー ジ」は平林秀明理事(当時、現会長)の尽力により 情報発信に大きな役割を果たしている。

 しかしながら、先人たちの努力にもかかわらず、 会員の高齢化は否めない事実であり、中高年者から 「隠居した年寄りの集まり」と認識されていることも否定できない。われわれは、こうした事実を今更 いきなり変えることなどできないし、その必要もないであろう。われわれは、高齢化した東京青木会を前提に、いかに魅力的な会にするかを考えていけばいいのだと思う。

 

 

3.できるところから始めよう。

 総会・懇親会を魅力あるもの、楽しいものにしよ うとする努力(新機軸)は一定の成果をあげ、総会 への参加数はコンスタントに60名を超えている。そ して、東京青木会を参加型の楽しみの会に、参加会 員がそれぞれの意義を見いだせる会に発展させる企 画(故郷を巡る旅・故郷の歴史同好会・美術と美食 同好会)も順調に続いている。

 それでも、今のままでは先細りは免れない。 5 年 後を想像すると年老いた自分たちの姿しか見えな い。

 ここにおいて最も重要なのは、地道な勧誘(一人 一人に声を掛けていく)ではないだろうか。

 私たちは、故郷青木村をこよなく愛する者である (これが東京青木会の唯一の参加資格である)。山間 の寒村から上京し、何年経っても決して忘れること なく故郷との絆を大切に生きている。そういう私た ちが世代を超えて一堂に集うとき、自然に語られる のは故郷への関心であり、故郷との結びつきであり、 懐かしさである。もちろん、旧友との再会の楽しみ もある。同郷の先輩後輩と安心して歓談したり、初 対面の人と知り合ったり、同期が集まって思い出に 浸ったり、ある種の安心感の中でわずかばかりの自 己表現をし、交流ができることは楽しいこと、嬉し いことである。こうした総会・懇親会の楽しみを広 く伝えていくべきだろう。

 おそらく勧誘のキーワードは、「楽しさ」あるい は「精神的な安らぎ」である。故郷の会であること からそれ以外には考えられないが、東京青木会側が それらを参加者に与えなければならないと考える と、執行部に無理が生じ、かえって参加希望者を不 安にさせる。そうではなく、参加者が主体的に楽し さを作れる会であることをアピールするのがいいの ではないか。

 

4.継続は力なり

 提言の究極は、端的に言えば、東京青木会は存在 することに意義がある、ということである。会員が どんなに減ろうが、何が何でも継続させることが大 事である。難しいこと(存在意義だとか目的だとか) を考えることも必要であろうが、何よりも大事なの は継続させることである。