第1回 修那羅峠の語源 高橋福幸氏 H20年6月
青木村と筑北村(旧坂井村)の村境に修那羅峠(しゅなら・とうげ)があります。この峠には安宮神社と民衆が納めた800体以上の石仏群が残っていますが、最近ではその素朴さが故に有名になり、それなりの観光客を集めています。
私がこの峠の存在を知ったのは小学校の遠足時で、この時以来「修那羅」と言う日本語離れした奇妙な地名が、頭にこびり付いて離れないでいました。ところが、“古川純一著「改訂版 日本超古代地名解」彩流社”にその語源が解明されていたのです。
修那羅は“シュナラ”、“ショナラ”或は“スナラ”と呼ばれている様ですが、この本によるとこれらは梵語で『石』を意味する“アシュナ”と、チベット語で『峠』を意味する“ラ”の合成語だったのです。修那羅峠には石が多かったので、アイヌ人がアイヌ語で“石峠=シュナ・ラ”と名付け、これを大和民族が漢字で“修那羅”と当て字したので、修那羅だけで“石峠”を意味しているのです。しかし、時代が経過するにつれて、“羅”は“峠”を意味している字である事が分らなくなり、後ろに再度“峠”を付加したので、“修那羅峠”は日本語に訳すと“石峠・峠”となってしまい、本来はおかしいのです。この様な言葉を重層語と言います。
修那羅峠の付近には、四賀村(志賀高原・菅平):シカ(アイヌ語)=崖の上、田沢温泉:タイ(アイヌ語=山林)+サワ(アイヌ語=小平地)、奈良本;ナラ(アイヌ語=緩やかな平地やそれに続く坂)などアイヌ語の地名が残っているので、古代には青木村にも多くのアイヌ人が住んでいた事が推し測られます。
第2回 野球殿堂入り村民宮原清氏 宮原清明氏 H21年6月
青木村出身に野球殿堂入りをした人がいました。宮原清氏です。
清氏の生家は島崎藤村の「千曲川のスケッチ」に出てくる田沢温泉のますや旅館。
上田中学(現上田高校)を卒業し、慶応大学に進みました。清氏は上田中学一級下の桜井弥一郎氏(南佐久出身)を同大に誘いました。これが二人を野球界で活躍させるきっかとなったのです。青木村殿戸出身の東急電鉄創業者五島(旧姓小林)慶太氏は上田中学で清氏の 一級上でした 。
清氏は明治36年第一回早慶戦の時、慶応大学の4番、二塁手で主将、弥一郎氏は投手でした。この試合は8回清氏のヒットから4点をあげ、11対9で慶応大学の勝利となりました。清氏は大学卒業後、会社経営の傍ら社会人野球の発展に尽力された功績を認められ、昭和39年第五回目の時、殿堂入りを果たしました。
そのときの顕彰文は「明治36年早慶野球開始の時慶大主将。同野球部の発展に尽力し、昭和24年初代日本社会人野球協会会長として社会人野球の名声を世界に高めた」となっています。
昭和39年から都市対抗野球優勝チームには宮原賞として盾が贈られていて今も続いています。
又、弥一郎氏はその後、慶大の野球部の前身三田クラブの監督を務めるなど、野球界の元老として敬愛され、第二回で殿堂入りしています。
第3回 義民の里青木村 小林慶三氏 H22年6月
青木村は「夕立と百姓一揆は青木から」といわれるくらい百姓一揆が多く起こった地域です。一揆の首謀者となり、処刑された人たちは各地域で「義民」として奉られ、その意思は村の人々に語り伝えられてきました。
(1) 天和の義民 増田与兵衛 「天和2(1682)年・入奈良本」
村民の困窮と庄屋の横暴を藩主の仙石政明に越訴。願いは聞き届けられたが、掟によって父子三人が打ち首。墓は滝仙寺境内、祠は「与兵衛大神」。
(2) 享保の義民 平林新七 「享保6(1721)年・中挟」
年貢減免の越訴は聞き届けられたが、新七は死刑。新七稲荷大神として祀られています。
(3) 宝暦騒動 浅之丞・半平 「宝暦11(1761)年・夫神」
上田藩最初の全藩惣百姓一揆。年貢免税・役人非法を強訴し勝利。計画の首謀者は浦野組の割番や庄屋達でしたが、両人のみ発頭として死罪。大正13年「宝暦義民之碑」建立、昭和18年義民180年祭挙行。
(4) 文化の義民 堀内勇吉 「文化6(1809)年・入奈良本」
庄屋の横暴と宿場の新建反対を唱えて愁訴し、聞き入れられましたが、勇吉は獄死。「勇吉宮」として祀られています。
(5) 明治2年騒動 増田九郎右衛門 「明治2(1869)年・入奈良本」
連年の凶作・米価の高騰、偽二分金出回りによる流通機構の混乱、特権村役人への反感から強訴・打ちこわし。北信濃全域を巻き込む大世直し一揆となりました。(214軒焼失 49ヵ村260軒打こわし) 九郎右衛門は晒首、馬十は斬首、玉蔵・歌次、幸五郎は永牢。
第4回 青木村の義民の伝統 横山十四男氏 H23年6月
近世において我国で起きた百姓一揆は、3,212件とも言われています。このうち「信濃の国」では173件で全国第一位、信濃の国に9藩あった内上田藩の発生は26件と多く、藩政に大きな影響を与えたものは、青木村の5件を含む次の8件であります。
西暦 |
和暦 |
発生地 |
首謀者 |
一揆の形態 |
1653 |
承応2 |
上田市・武石区 |
小山 久助 |
越訴 |
1675 |
延宝3 |
上田市・平井寺区 |
林 徳左衛門 |
越訴 |
1682 |
天和2 |
青木村・入奈良本区 |
増田 与兵衛 |
越訴 |
1721 |
享保6 |
青木村・中挾区 |
平林 新七 |
越訴 |
1761 |
宝暦11 |
青木村・夫神区 |
浅之丞・半平 |
強訴・打毀し |
1784 |
天明4 |
上田市・下室賀区 |
小山 磯之丞 |
愁訴 |
1809 |
文化6 |
青木村・入奈良本区 |
堀内 勇吉 |
愁訴 |
1869 |
明治2 |
青木村・入奈良本区 |
増田 九良右衛門 |
強訴・打毀し |
近世上田の里人の間では、「夕立と騒動は青木から来る」と伝えられてきました。 一天俄かに掻き曇り、子檀嶺岳・滝山連峰・夫神岳の頂から雷鳴と共に上田盆地に駆け下る夕立は、青木村で発生し、近隣の村人を巻き込んで駆け下った5回もの一揆を彷彿とさせます。
青木村は、山村ではありますが、古代から東山道の宿駅として開け、古刹国宝大法寺に見られるように文化的にも重要な地です。近世には北国街道と中仙道を結ぶ保福寺街道が通過しており、人々の交流は活発で決して閉鎖的ではありませんでした。
5回の百姓一揆は上田藩を震撼させ、百姓側の勝訴に終わりましたが、正義の言い分とはいえ、指導者の多くは罪人として死罪に処せられました。しかし、後には義民・神として顕彰され、その精神は村人の間に精神文化的な伝統として、現在に至るまで脈々と受け継がれているのです。
※ 文責 編集者
文学博士 横山十四男氏は、1925年長野県生、筑波大学教授他多くの公職を歴任。
歴史教育・百姓一揆・義民伝承などの研究の第一人者で、著書も多数ある。
第5回 東京青木会の歩みについて 越山 寛氏 H24年6月
終戦後は、間もなく郷土青木村から東京に就職された若人によって結成された、「青和会」がそもそものスタートと思います。
当時、青木小学校に永年勤続されました、小林 明先生のご指導をいただき、休日には集まって多種・多彩な活動を行っていました。
その後、昭和35年頃に「東京青木会」が再発足しまして、青和会メンバーは「東京青木会青年部」として活動を続けることとなりました。
東京青木会の初代会長には、入田沢出身の栗原正毅様、2代会長に入田沢出身山本 源重様、3代会長に中村出身 秋山 三保様、4代会長に青木出身の富田 寅雄様、5代会長は入田沢出身 若林 直人様。若林さんのとき・平成5年8月に、50回記念総会が葛飾区レインボーホールにて、80余名の参加を得て盛大に開かれました。
6代会長は、細谷出身神楽三男様、7代会長は入田沢出身の嶋形佳人様、8代会長は中挾出身 小山精良様、そして現在の高橋 福幸様へと引き継がれております。
思えば長い年月、皆様と楽しく会の活動を続けて参りましたが、来年は70回記念の総会を迎えるわけです。
益々のご盛会をお祈り申し上げます。
※ 編集者注
越山 寛氏は、青和会の設立発起人兼会長として、又、東京青木会の副会長を歴任され、長く中心メンバーとして活躍された。又、この小講演が契機となって、「東京青木会の歴史」が編纂されるとともに70回記念総会が企画されることとなった。
第6回 ますや旅館に宿泊した有名人 宮原 豊氏 H26年6月
田沢温泉は東山道が開かれた飛鳥時代に開湯、寛延2年(1749年)に「温泉は上田藩から中村の直営になった」という記録があります。昔から農閑期に上小・佐久・筑摩からの湯治客で賑わい、大正期には都会からの避暑客も訪れるようになり、記録によれば宿泊客数は大正4年に5万2,000人、同10年代は年間10万人を超えていたそうです。
「破戒」、「夜明け前」などで知られる明治の文豪 島崎藤村は、小諸義塾の英語教師をしていた明治34年にますや旅館に逗留しました。ますや旅館は大正6年に本館・新館が増改築されたが、旧館3階の藤村の泊まった部屋は今も当時のまま残されています。
大正10年に「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄(咢堂)翁が、また大正12年には同じく日本の憲政史上に大きな足跡を残し後に内閣総理大臣になる犬養毅翁が宿泊しました。全国的にも人気絶大な尾崎や犬養といって大物政治家がなぜ田沢温泉を訪れたのか。大正デモクラシーの時代に、政府主導による青年会運動とは一線を画す形で小県郡の進歩的な青年たちが結成した信濃黎明会が、当時中央で長州閥打破・憲政擁護運動の論陣を張っていた尾崎や犬養を弁士として上田・小県に招いたのです。
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