19回「故郷の歴史同好会」開催報告 

 

 

229日(土)13001430櫻田事務所において開催された役員会で、東京青木会第77回「集う会・総会」(2020614日)に向けた準備について基本的なことを話し合った後に、湯島「味の上田」に場所を移して第19回歴史同好会が15001800開催されました。

 

日時:229日(土) 15001800

場所:湯島「味の上田」

会費:4,500

テーマ:「明治2年の上田騒動」(発表者:櫻田喜貢穂氏)

出席者 :山口さん、金谷さん、深見さん、沢村さん、櫻田氏、山本(修)氏、山本(啓)氏、宮原豊の8人

 内容:宝暦一揆とともに上田藩を揺るがせた「明治2年の世直し一揆」の背景・影響など歴史的意味について、要領よく整理された説明資料を基に要点をクリアカットに解説いただいた。

 

     ただでさえ長年の重税に苦しんでいるうえに、不作・凶作が続き、米価が高騰、そこに新政府から御用金・軍用金や労役供出など賦課されて、百姓(庶民)の生活苦が極まっていた。

     新政府軍は、戊辰戦争で軍用金が必要、そのために二分金(1両の半分=約2000円相当)が鋳造されたが、新政府に信用がなく粗悪品のために二分金(チャラキン)が流通しない(取引が成り立たない)、贋二分金による社会不安が生じた。

     ならず者の脅しで暴徒化したようなものではなく、全藩的に事前に根回しされた計画的なものだと考えられる。特権的村役人(割番・庄屋)や豪商・富商が一揆のターゲットで、要求内容も筋が通っており、結果、多くの要求が聞き届けられている。一揆の被害は甚大であるが、それに比して処罰は軽微。

     一揆の発端となった青木村には、その精神性として「悪政・不条理に犠牲覚悟で対抗し、農民を救うことが正義であるとの確信」が継承されてきた。それは過去の一揆の成功体験が育んだもの。

 急変する幕末から明治初め頃の政治・経済・社会の混乱状態(カオス)の中で、民・百姓の生活が如何に大変であったか想像を絶するものがある。簡単にまとめられるような内容ではないが、今回も様々なことを学び知ることとなった。感謝。

  

なお、本年の歴史同好会の予定は次の通りですので、お願いいたします。

20回 88日(土)「中山道を歩いて」(発表:山口操様)

21回 1128日(土) テーマ未定:第20回の時に21回以降のテーマについて決めたいと思います。

テーマ候補と報告者(自薦・他薦)をお願いします(ちょっと早いですが、21回は忘年会です。                                                  

 

18回「故郷の歴史同好会」の報告

 

日時:20191130日 午後3時~615

場所:湯島「味の上田」、会費:4,500円(料理と飲み物4,000円+税10%)

参加者(敬称略、出席受付順):宮原清明、山本修士、金谷笑子、山口操、小林慶三、櫻田喜貢穂、尾和剛一、丸山光繁、沢村良江、高橋福幸、宮原豊(以上11名)+橋詰幸夫

テーマ:「栗林一石路の俳句」(発表者:宮原清明様)

内容のまとめ:

前回の「栗林一石路について」(発表者:小林慶三様)では、一石路の人物像、青年会活動や青木時報、中央に出てからのジャーナリストとしての活動、時代背景と生涯等についてご報告いただきました。

今回は、俳人としての一石路の原点、一石路の俳句の作風や作品、俳句界における一石路の位置等について解説いただきました。

5歳上の兄から影響を受けて俳句を始めた。その頃の青木村では、読み書きができるものはほとんどが俳句や短歌をし、お祭りの楽しみは必ず俳句会があって景品が出たので、兄弟そろって遠くまで出かけた」とは、戦後のわが子供時代との文化的な差の大きさに愕然とします。昭和30年代に小中学校を過ごした自分の時代に、子供は誰でも俳句や短歌をやっていたとは思えないです。ただ無邪気に山野を駆け巡っていました。単に知らなかったのか、あるいは記憶にないのか、それは私だけでしょうか?

一石路の自由律の提唱、プロレタリア俳句の提唱により、代表作「シャツ雑草にぶっかけておく」に連なる数々の優れた俳句と解説を、宮原清明様の静かな語り口に引き込まれながら堪能し、充実したひと時を過ごしました。感謝。

「このような素晴らしい俳人が青木村にいたことをもっと早く知っているべきであった。当時、学校も大人も誰も教えてくれなかった」という声を、戦後に初等中等教育を受けた多くの参加者から聞きました。知っていたからどうだったかは棚に上げるとして、とにかく当時は「青木村の栗林一石路」のことを何も知らないままに無為に過ごしたことは事実であり残念なことであります。当時、岩波新書から「俳句と生活」(栗林農夫著)を出しているというのは、すごいことである(文化的・知的レベルの高いことである)と思います。

 

今後の予定:

19回は229日(土)「明治2年の上田騒動」(発表者:櫻田喜貢穂様)

20回は88日(土)「中山道を歩いて」(発表者:山口操様)

21回は1128府(土)テーマ等未定です。希望・提案を次回にお知らせください。

 

 

報告まとめ:連絡係 宮原豊

 

 

 

第17回 「故郷の歴史同好会」

  

日時:817日(土)15001800

場所:湯島「味の上田」 〒113-0034 文京区湯島3-38-3 電話:03-832-0909

会費:4,500円 

出席者(出席回答順・敬称略):小林慶三、丸山光繁、山本修士、櫻田喜貢穂、沢村良江、山口操、 

宮原清明、尾和剛一、高橋福幸、宮原豊の10名 +橋詰幸夫(店主)

テーマ:「栗林一石路について」(報告者:小林慶三様)

   青木村で生まれ育ち、明治・大正・昭和にジャーナリスト・俳人として幅広い活躍をした栗林一石路の人物と時代背景などの要点を、小林様には30分以内という短時間にも拘わらず、懇切丁寧に解説いただきました。

困難な時代に「正義と反骨」の青木精神を貫いて生きた栗林一石路の生き方に感銘を受けました。若くして俳句に目覚め、10代から句集「層雲」に投稿し、「青木時報」創刊に取り組んだ後に東京に出てジャーナリストとして活躍するも、軍国主義・治安維持法による言論統制・弾圧に入獄、釈放されるも戦後には正義と良心に従い、自分の意に沿わないことに従ってしまったことを「3つの棘」として猛省したことなどを知ることが出来ました。

個人的は、青年会活動や青木時報のこと、あるいは信濃自由大学など、大正デモクラシーの盛り上がりがあったにも拘らず、一転して不自由な軍国主義に染まっていく政治・社会と人々の変化とそれに抗して生きていくことの難しさについて考えさせられました。

   「故郷を巡る旅」で青木村図書館には栗林一石路の展示室もありますが、神奈川近代文学館にも一石路の関係資料が展示されているとのこと、この郷里の偉人についてもっと勉強したいと思いました。

小林慶三様による今回の「栗林一石路の生涯について」の報告に続き、次回は宮原清明様に「一石路の俳句」についてお話しいただきます。

 

18回 1130日(土)「栗林一石路の俳句」(宮原清明氏)、また年が明けてからは「明治2年の上田騒動:青木村から始まり上田全藩に及んだ世直し一揆について」(櫻田喜貢穂氏)、「中山道を歩いて」(山口操さん)と予定されています。よろしくお願いいたします。

  

 

16回「故郷の歴史同好会」報告

 

日時:511日(土)午後3時~6

会場:湯島「味の上田」

参加者(順不同):山本修士様、丸山光繁様、小林慶三様、山口操様、金谷笑子様、沢村良江様、

尾和剛一様、宮原清明様、宮原豊の9名。

テーマ:「天和、享保、宝暦、文化の一揆と背景」(発表者:宮原豊)

会費:4,000

 

青木村の子供たちが演奏する「義民太鼓」は素晴らしいです。義民太鼓は昭和57年の「義民祭」で発表されたそうですが、今の子供たちは一揆や義民の物語を大人たちから学ぶ機会も多いのだろうと思います。しかし、昭和23年生の私は小中学校や大人たちから一揆や義民について教えてもらった記憶が薄く、昨今でこそ「義民の里・青木村:宮原栄吉編(昭和61年刊行)」や「青木村義民史・反骨の群像:清水利益著(平成16年刊行)」等を通して、青木村で発生した5回の一揆の背景や一揆の模様、あるいは一揆後の処罰や影響、さらには義民の人物像などにつて知ることが出来ます。

一揆と義民について、今まで私は不勉強でした。青木精神の基礎になっている一揆と義民の歴史について上記の2冊の本や筑波大学の横山十四男教授の著書、あるいは小説「一揆~上田藩宝暦騒動(今井文栄著、1985年刊行)」から単に机上で学んだだけに過ぎませんが、青木村の山々や村落を思い起こしながら身近な問題として学ぶことができました。

天保や享保の一揆と「上田藩全域に及ぶ宝暦騒動」との関連性など横山先生の研究に刺激を受け、また清水氏の紹介する小河原辰雄先生の「橋爪玄惟の関与説」まで、私のとっては大変興味深いものでした。

にわか勉強の故に報告成果については忸怩たる思いがしますが、重税に苦しめられて、こんな贅沢を味わったことのなかっただろうご先祖様には誠に申し訳ないと思いつつ、いつもの「味の上田」で美味しいお酒と肴をいただきながら、皆さんと時空を超えて故郷の山野や人々に思いを馳せました。

 

 

「故郷の歴史同好会」資料――青木村「義民」の伝統:反骨精神の系譜     宮原豊 (2019511日)

 

 

天和2年(1682年)—領主・仙石氏(16221706年)。

 

天保義民:増田与兵衛

  宝暦9年(1759年):与兵衛明神として祀られる。

 

・「一揆の成功:庄屋川村氏の非法を越訴して要求が通った」という象徴的な意味。

・事件後77年を経て初めて入・下奈良本の氏神に祀られたのには何か特別の理由があるのではないか――宝暦一揆の直前(2年前)に祀られ、宝暦騒動に影響を及ぼした(意図)。

 

享保6年(1721年)—新七が没した年は領主・松平氏(17061871年)の治世である。

 

享保義民:平林新七

   明和4年(1767年):新七稲荷として祀られる。

 

・史料が乏しいが、平林新七は寛文~享保(16701720)に中挾村に居住したと記録。

・橋爪玄惟(中村の漢学者・医者)起草の頌徳碑から、新七稲荷の発起が明和3年と判明。

・発起は宝暦11年からは5年後(浅之丞・半平処刑の3年後)のこと。

・中挾村への検見強行に抗議、45俵の減免を勝ち取ったと言われるが、年月・内容は不詳。

・橋爪玄惟は上田藩の高名な学者安原貞平の門弟。安原は家老岡部九郎兵衛と昵懇の間柄。

小河原説:宝暦騒動の背後に橋爪玄惟がいたのでは?

 

宝暦11年(1761年)

 

宝暦義民:(中沢)浅之丞・(清水)半平

 大正13年(1924年):宝暦義民の碑が建立

 

・上田藩にとっては未曽有の全藩に及ぶ大一揆。藩全体に共通の狡猾で過酷な課税と不正。

・田沢村庄屋 小宮山金治郎、浦野組割番 若林孫治郎(中村)等は一揆の計画者か?

・夫神村の会計に多額の不正が発覚し、指摘を受けた側が4人を密告、半平以外は釈放。

・大正13年に石碑が建立(小林直次郎の筆)されるまで、歴史の表舞台から隠されていた。

・昭和15年(1940年)、清水利益氏(当時16歳)が半平の墓石・石塔を発見。

・昭和18年(1943年)32日、「180年祭」を挙行。宝暦義民の墓は村内に14人。

 

文化6年(1809年)

 

文化義民:堀内勇吉

  勇吉宮は与兵衛明神の直ぐ近くに祀られている。

 

・入奈良本村庄屋出入事件の首謀者—―庄屋父子の非を愁訴。

・仲裁は不調に終わるが、勇吉は重罰を受けながらも願意は通った。

・堀内藤兵衛(奈良本姓に)の排斥罷免運動。「付き合い外し(村八分)」が続く。

 

(参考資料:青木村「義民の里・青木村」、清水利益「青木村義民史・反骨の群像」等)