「東京青木会の歴史」      高橋 福幸 、宮原 清明

 

戦後、長野県上小地方(上田市と小県郡)には数多くの市町村が存在していた。これ等の内で“東京○○会”が結成されている市町村はそう多くはない。丸子町、真田町、武石村、和田村及び当青木村位なものである。

この地方の中核である東京上田会は18年前にようやく市の援助を得て結成されたに過ぎない。東京青木会(以下単に青木会と称す)はこれ等の中では最も歴史のある会であろう。大正時代中頃に結成されたと思われるので、90年以上もの歴史がある。

この間の歴史は結成頭初の「禁酒会時代」、終戦後再開の「青和会時代」及び高度成長期以降の「青木会時代」に大別される。

 

禁酒会時代

五島慶太氏
五島慶太氏

後の鉄道大臣五島慶太氏(旧姓小林・殿戸出身)の尽力もあり、大正7年旧上田藩の江戸藩邸(千代田区三番町)の敷地内に千曲寮が開寮した。以降この寮は青木村出身学生の東京での勉学、生活の基盤となった。

この千曲寮の初代管理人は早川喜八氏(田沢出身)であった。この早川氏が管理人であった時に、発起人となり、スタートさせたのが「禁酒会」である。

今となっては詳細は不明であるが、この時入寮中であった元青木村村長の宮原栄吉氏(元全国市町村会長、田沢、早稲田大学)や元青木村唯一の歯科医師宮原英二氏(田沢、日本歯科医学専門学校)等の入寮者も参加していたであろう この禁酒会が青木村出身者の親睦会を主催する様になり、五島慶太氏を会長とした東京青木会に発展し、年2回の親睦会を開催する程盛んな会になった。

しかしながら、昭和14/15年頃から千曲寮に入寮していた小林剛氏(殿戸、東大経済学部)の様に、卒業を半年繰上げられ、寮から直接海軍に入隊し、そのまま帰らぬ人となった者も居た。この様な状況故、しばらく続いていたこの青木会も、大東亜戦争中及び戦後の混乱期には中断せざるを得なくなった。

千曲寮はその後(昭和46年)東京都三鷹市に移り、長野県全体の学生寮となって現在も続いている。

青和会時代  昭和29年7月~昭和35年5月

終戦後、義務教育を終えた若者達が就職の為に親元を離れて上京したが、仕事上の辛さやホームシックに落ち入り泣きたくなる時もあり、相談相手が必要であった。こんな時丁度、恩師の小林明先生(小県郡田中町出身)が青木小学校を定年退職され、自分の子供達の教育の為に上京し、新宿区初台の斎藤病院の事務長をされていた。自然に皆が先生の元へ身の上相談の為に集まる様になった。小林先生の奥さんが応対の為に大変な程盛況だったそうである。それにも拘らず、離職して帰郷してしまう若人も多かった。

そこで、小林明先生は若者同士が集まる会の必要性を痛感し、自宅に頻繁に出入りしていた当時22歳の越山寛氏(後に当会副会長、下着製造会社経営、入田沢)を発起人として、若人の集まり「青和会」結成準備会を昭和29年春に発足させた。昭和31年6月時点で60余名の会員名簿が出来た。同年7月1日に発足会を開催した。会場は日比谷公園内の野外音楽堂で、14名が集まった。役員の選出・会則・運営方針を決め、ここに目出度く青和会が正式に発足した。会長は越山寛氏、相談役は小林明氏と戸恒百合子さん(旧姓髙橋、三越専属洋服店)であった。戸恒さんは若人の母親として物心両面か

ら面倒を見てくれた様である。

この会の会長となった越山寛氏(上京前は青木時報編集者の一員)は実に熱心で、8月と12月を除く毎月行事(ハイキング・卓球大会・バトミントン大会・潮干狩り・討論会・洋食体験会・美術鑑賞会等々)を開催し、会員の楽しみと親睦に努めた。例えばハイキングでは野猿峠、筑波山、弘法山、正丸峠から伊豆岳登山、中津川渓谷散策等々であった。

青和会新聞「ときわ」も発行した。編集長は小山精良氏(後に当会会長、東急ホテル勤務、中挾)であった。この青和会は、昭和35年からは再結成された東京青木会の青年部(部長は田中由治氏)となった。越山寛氏・田中由治氏(昭和41年没)・小山精良氏を中心に活発だった青年部も若人の結婚と共に年々部員が減少し、昭和41年末には廃部となった。

青年部・バトミントン部
青年部・バトミントン部

東京青木会時代  昭和35年5月15〜現在

昭和34年8月、郷里に襲来した台風7号は甚大な被害を及ぼした。被害は無かったが松代群発地震も勃発していた。青和会として応分の支援をする目的で開催した座談会に、多数の先輩青木村出身者も列席した。青和会の充実した発展が好評を博し、今度は若者だけの会ではなく大人の会も必要であるとの気運が盛り上がり、12月には第1回設立準備会が栗原正毅医師宅で開かれた。出席者は山本・山浦稔・秋山・富田・宮原・片岡・金井等々の各氏であった。清和会側からは越山会長と小林明相談役が参加した。昭和35年5月には代々木駅付近の料理屋で東京青木会再結成直前会議が開催された。この料理屋の会合に出席した面々は小林明元教諭・栗原正毅病院長(旧姓 尾和、入田沢)・山本源重氏・秋山三保氏・富田寅雄氏・嶋形佳人氏・他4名の合計10名程であった。

この出席者から初代〜4代及び7代と5人もの歴代会長が選出されている。 

栗原正毅氏
栗原正毅氏

初代会長;栗原正毅氏

(尾和、入田沢、医師)昭和35/5〜38/56

昭和35年5月15日東医健保会館で、戦争で中断していた青木会再開の総会が開かれ、会長には栗原正毅医師、青年部長には田中由治氏、顧問には沓掛眞氏・山浦稔氏を選出した。この時点での会員数は125名であった。

栗原会長の時代には春と秋の年2回の総会、第2回目の名簿改訂(昭和37年)、会長帰郷時の8ミリ映画の上映等々を行った。 会長は青年部の育成には殊更愛情を寄せられたが、昭和38年6月1日病死された。

二代会長:山本源重氏

(入田沢、図書出版会社勤務)昭和40年6~42年6月

 

青木会を再結成したは良いが、貧乏団体故に、安い総会会場や役員会会場探しに毎回翻弄させられた。例えば、長野県人会事務所ホール(日本橋室町)や渋谷の信用金庫2階を市野丈計氏(後副会長、渋谷道玄坂で遠州屋酒店を経営、中村)の紹介で数回開催した。この苦労は平成10年に役員会会場が鮒忠東上野店に、平成13年に総会会場が上野公園内のレストラン“グリーンパーク”に固定される迄続いた。

名簿は、最初会員数も少なかったので、ワラ半紙によるガリ版刷りで昭和37年に発行された。名前はアルファベット順であった。越山氏や小山氏中心に各種の行事を展開した結果、会員数が増加した。そこで本格的な名簿を作成する事になり活版印刷名簿初版(昭和42年4月1日発行、青色表紙版)を発行した。この名簿は集落別校正であった。この名簿の作成には小林明先生、役場及び小学校などの御苦労があって、600余名の名前が収録されている。発行費用は名簿に掲載の広告代で賄った様である。

山本源重会長はこの名簿の発行を最後に退任された。

秋山三保氏
秋山三保氏

三代会長:秋山三保氏

(中村、警察官)昭和42年6月~昭和60年6月

 

名簿再版(昭和50年7月1日発行)を8年振りに発行した。

富田寅雄氏
富田寅雄氏

四代会長:富田寅雄氏

(青木、電話設備工事会社経営)昭和60年6月~平成1年6月

五代会長:若林直人氏

(入田沢、元都庁交通課)平成1年6月~11年6月 

 

50回記念総会(平成5年8月、80余名が参加)と翌年の総会は越山寛氏の紹介で葛飾区レインボーホールにて開催された。50回の内には開催された諸行事が総てカウントされている。

その後、その時の若林会長が都庁交通課勤務の関係でJR有楽町駅付近の交通会館内の都職員会館食堂で総会を2回開催した。

続いて、現在の都庁近くの小料理屋“一心”で、2回総会が開催された。ここは若林会長の同級生横沢節子さんの紹介であった。各部屋や廊下に分散して座る有様であり、とても総会とは言えない情況であったそうである。役員会は経費節約の為、平成3年から3年間越山寛氏宅で行った事もあった。この様に青木会は発足以来40年を経過しても総会や役員会開催場所に毎回苦労する有様であった。

この様な状況であったので、総会や役員会の開催日時、会場面積、マイク音量等々の条件が合わなくて、苦労が耐えなかった。安くて固定した総会会場や役員会会場が求められていた。そこで役員会会場は嶋形佳人氏の紹介で、平成10年から役員会は鮒忠東上野店で開催される様になった。

この様な運営状況であったので20年間も名簿の発行は出来なかった。しかし、余りにも間が開き過ぎているので、会員会社の広告収入中心で名簿3版(627名収録)を平成7年9月1日に発行した。実に20年振りの発行であった。時の越山寛理事の尽力が大であった。

若林会長は期半ばにして病死された。

神楽三男氏
神楽三男氏

六代会長:神楽三男氏

(細谷 国家公務員:現ハローワーク事務官 平成9年12月6日〜11年6月13日)

 

若林会長の死亡に伴い、急遽新会長には副会長(総務担当)であった77際の神楽三男氏を選出した。副会長には嶋型佳人・上野吉則・越山寛・田島きぬ子の各氏を選任し、補助体制を充実させた。神楽会長は現在93才で存命である。

嶋形佳人氏
嶋形佳人氏

七代会長:嶋形佳人氏

(入田沢、設計事務所経営)平成11年6月13日~16年6月

 

神楽会長は高齢であり1期で退任された。東天紅上野広小路店で開催した総会で新会長には嶋形佳人副会長を、副会長には田島きぬ子・越山寛・小山精良の各氏を選任した。特に副会長の若返りが注目された。

平成13年から、横沢和子氏(前記節子氏の妹さん)の紹介で、総会は上野公園内のレストラン“グリーンパーク”で開催された。この会場は場所柄、広さ、費用、カラオケ可能等々青木会総会開催場所としては最適で、再結成41年目にしてようやく総会会場が固定化された。発足したばかりの東京上田会総会に招待されたが、未だ出席出来る経済状態ではなかった。その内に招待状も来なくなってしまう有様であった。

青木会会員名簿を平成12年5年振りに再発行し、その販売代金(一冊千円)で運営を幾らか安定化させた。以降名簿は平成14年と16年にも発行されている。これらの名簿に登録されている会員数は各々246名(12年版)、246名(14年版)、235名(16年版)である。

尚、これ等の名簿の表紙に記されている「自己を愛し、郷里を愛する者は、人生多幸の道なり」が当会のモットーであろうが、何時制定されたのかは不明である。昭和42年度版名簿の最終頁に既に存在している。

小山精良氏
小山精良氏

八代会長:小山精良氏

(中挟、東急ホテル支配人)平成16年6月~22年6月

 

名簿も纏まり、総会会場や役員会議場所も固定化され、やや経済的にも余裕が出てきて安定期に入った。そこで総会時に小講演「郷土を語る」シリーズを行う事になった。第1回目は提案者である髙橋福幸氏が講師となり、従来意味不明であった「修那羅峠の語源」を講演した(平成20年6月29日)。以来「郷土を語る」の講演会は会員が講師を務め現在迄続いている。東京上田会総会の招待にも応じられる様になり、小山会長が何度か出席した。

ようやく安定期に入ってきた本会であるが、再結成時に若人であった会員も老齢化が進み、急に総会に参加する事が出来なくなってきた。平均50名程度だった参加者数は、平成21年には37名にまで減少してしまった。この時代を含む前後11年間の総会参加者数の推移は次記の通りである。

平成1445名 → 15年53名 → 16年49名 → 17年53名 → 18年54名 → 19年51名 →

      20年58名 → 21年37名 → 22年53名 → 23年59名 → 24年65名

特に役員の高齢化(最高齢者は91歳)は顕著であり、体調不良者が続出し、役員会や総会の開催も危ぶまれる程であった。新しい会員を確保したくても、個人情報開示問題が徹底されてきて、同窓会名簿も発行されなくなっており、ジリ貧で閉会を迎えざるを得ない悲観的状況に陥っていた。会員及び役員の高齢化が進み、会の存続が危ぶまれる様になっていた他市町村のこの種の会と状況は全く同じであった。  

高橋福幸氏
高橋福幸氏

九代会長:高橋福幸氏

(村松、アンリツ株式会社 通信工学技師)平成22年6月~現在

 

この様な閉塞状況を打破して会の存続を図る若返り策として、平成21年12月23日の役員会で最年少理事であった髙橋福幸氏を新会長に選出した。22年3月28日の役員会では新理事9名も選出され、役職も決まり新体制が発足した。この新体制でその年の総会を開催する事になった。新体制の主な改善点は

1)名簿の大幅な見直しとパソコン化を行ない、名簿発行の経費削減

2) 青木村から年10万円の補助金が平成23年から支給される様になった。

3)新会員確保の為、総会を平成22年からミニ同期会方式に変更した。

4)“郷里を巡る旅”を開始した。(第1回:東山道を巡る旅:平成23年10月)

5)広告・宣伝(広報青木、東信ジャーナル等)による知名度向上

6)役員の若返り

等であった。これ等の活動の結果、会運営も安定し、会員と役員も若返り、総会に参加する人数が65名(平成24年)迄増加した。

今後時代に合わせて

1)      ホームページ開設:本会の歴史作成もこの為の準備である。

2)      会則の改定

を行う予定である。 

尚、平成22年以降、東京上田会の招待には毎年応じると同時に、当方にも御招待する事にし、毎年参加頂いている。24年度の御招待者は青木村沓掛教育長(宮原村長代理)、下形総務課長兼会計責任者及び東京上田会宮島光男専務理事(森会長代理)であった。

平成24年現在、名簿登録会員総数は310名、内総会開催案内状発送数は188名、返答者数は144名である。

以上