後の鉄道大臣五島慶太氏(旧姓小林・殿戸出身)の尽力もあり、大正7年旧上田藩の江戸藩邸(千代田区三番町)の敷地内に千曲寮が開寮した。以降この寮は青木村出身学生の東京での勉学、生活の基盤となった。
この千曲寮の初代管理人は早川喜八氏(田沢出身)であった。この早川氏が管理人であった時に、発起人となり、スタートさせたのが「禁酒会」である。
今となっては詳細は不明であるが、この時入寮中であった元青木村村長の宮原栄吉氏(元全国市町村会長、田沢、早稲田大学)や元青木村唯一の歯科医師宮原英二氏(田沢、日本歯科医学専門学校)等の入寮者も参加していたであろう この禁酒会が青木村出身者の親睦会を主催する様になり、五島慶太氏を会長とした東京青木会に発展し、年2回の親睦会を開催する程盛んな会になった。
しかしながら、昭和14/15年頃から千曲寮に入寮していた小林剛氏(殿戸、東大経済学部)の様に、卒業を半年繰上げられ、寮から直接海軍に入隊し、そのまま帰らぬ人となった者も居た。この様な状況故、しばらく続いていたこの青木会も、大東亜戦争中及び戦後の混乱期には中断せざるを得なくなった。
千曲寮はその後(昭和46年)東京都三鷹市に移り、長野県全体の学生寮となって現在も続いている。