第7回 故郷の歴史同好会

 

日時:2017 年 2 月 25 日(土)15:00~18:00

場所:湯島「萬神居」・・・今月末に改装開店とお聞きしています。

文京区湯島 3-35-9 白川ビル 1 階 電話:03-5812-7717

会費:4,500 円(税サービス込)

 

青木村の養蚕業については今までの同好会の中で折に触れ話題になってきましたが、前回第 6 回では尾和剛一様から青木村の養蚕業の歴史について詳しくご報告いただきました。それを受 けまして、第 7 回の同好会におきましては、青木村の養蚕業の盛衰に大きな影響を及ぼした「日 本の生糸の貿易」を、横浜港の発展の歴史を振り返りながら概観します。江戸末期の横浜開港当 時の蚕種輸出、生糸の輸出、そして明治~大正~昭和の日本の製糸産業の変遷(製糸業と貿 易)について考えてみたいと思います。製糸業の盛衰は日本の経済、社会、政治、外交、軍事に まで大きな影響を及ぼしていますが、そこまで広くは論じられません。ただ、それにより青木村の 人々の生活にまで及ぼされた影響の一端を垣間見ることができればと考えます。以下、宮原豊が以下の資料で、話は20分程度にまとめました。 

 

日本の養蚕・製糸業

 

A,蚕種の対フランス輸出

1、1840年代、フランス(生産地は南部)で、微粒子病が発生。185060年代にかけて国外から生糸蚕種を必要とする差し迫った事情に。

その頃、ヨーロッパではイタリアとフランスが2大養蚕 

国で、生糸産業も盛んであった。

2、フランス:1845年~55年の10年間の年間平均繭生産量は18,000トン。50年は20,000トン、54年がピークで23,000トン。1860年代前半は 年10,000トンに減少、65年は5,500トンまで落ちた。

3、1860年に最初に対仏輸出を認可:30枚。

日本から仏向けに蚕種を輸出5割以上が信州から(上田地方が3~4割)。

輸出統計:単位:枚数・・・「日本では蚕種はコウゾの皮でできた特別の「種紙」の上に産み付けられる。種紙は縦32センチ、横22センチ、厚さ1ミリで、この上に平均25グラムの蚕種が産み付けられる。普通25グラムの蚕種からは約5万匹の蚕が孵化する」。ちなみに1匹で桑の葉を25g、サラダボール1杯分を食べ、吐き出す糸は1500m

4、1860年代、パスツールによる微粒子病防止策が功を奏し、フランスの繭生産量は1871年、72年の2年間は、年平均15,000トンに回復。

5、日本の蚕種輸出は、製糸業の競争力保持のために基本的に制限していたが、仏の要請で1860年代に輸出。1871年普仏戦争のため対仏輸出停止。その後は蚕種の輸出は減少。

 

B、信州の生糸生産量の変化についての一つの指標

 

明治8年~昭和3年までの平野村(岡谷)の生産量の推移(指数)。

明治12年 平野村一村の出荷量が全国器械製糸業の16%を占めていた。

 

明治8年 1.0

同14年 3.0

18年 8.0

24年 41.0

27年 80.0

36年 85.0 ~

昭和3年 600.0

昭和4年 日本の養蚕農家は220万戸、絶頂期を迎えた。諏訪地方は最盛期に日本生糸の生産3割、輸出の5割を担う。諏訪・岡谷の生糸生産量を推計:平野村(岡谷)の明治8年に比較すると、10年後8倍、20年後80倍、最高は昭和3年の600倍。

諏訪地方の製糸業者の改良また改良、改善また改善の努力の成果でもある。

 

 

C、信州の製糸業

 

1、(初期)土地の財産家(旧士族の年金)=資本、経営者の努力。

2、共同方策=団結力(生糸の共同販売の結社=トラスト、太さ・長さの統一、留口を色糸、検査と技術の統一)、競争心、研究熱心。

3、空気(乾燥):繭貯蔵に適していた

4、動力源として水車利用、時に人力(臨機応変)。諏訪湖の水。

5、松代・六工社(富岡にフランス式を学び、改良)、あるいは岡谷(平野村)・中山社(イタリア式の欠点を改良し、六工社を調べ、日本式ホオズキ釜(諏訪方式)を開発。鍋はフランス銅製を国産の陶器製鍋に。木工器械製糸(安価、簡便)。

6、女工確保=雇用創出。

7、運送業・倉庫業(シルクロード:陸運、水運、鉄道)の発展。

8、 中央線は、明治38年末に富士見―岡谷間は開通、39年には八王子―塩尻間が全通。開通により運賃コストは繭40%、石炭35%減となった。それだけではない、繭の調達範囲は遠方にまでに及び県外繭の比率は3倍に増加した。石炭も常磐炭主体が名古屋港経由で安い九州炭が増加した。女工も遠距離募集ができるようになった、県外出身女工の比率が35%から45%に増加した。

 

D、生糸の価格変動(不安定。製糸=生死)

 

1884年(明治17年):松方デフレ

1890年(明治23年):欧米不況

1893年(明治26年):米国購銀条

例廃止による不況

1896年(明治29年):日清戦争後  

の反動不況

1900年(明治33年):為替変動、

米国市場の混乱

1907年(明治40年):米国不況

1914年(大正3年): 欧州向け

輸出停止(第一次大戦)

1920年(大正9年): 大恐慌(米

国株式暴落)

1929年(昭和4年): 世界大恐慌(ニューヨーク・ウォール街大暴落から)

 

E、養蚕業・製糸産業と富国強兵・殖産興業

 

1、            「外貨」に頼らない「100%国産原材料の有力輸出品(原料、技術の全てが国内自給)。そのような「生糸」が輸出額の3分の1を占めていた。日本の国際収支上に決定的に大きな役割を果たし、農村経済を活気づかせ、機械工業の基礎となり、富国強兵に貢献した。現在の自動車産業のようなすそ野の広い総合的な産業。農村にも立脚した産業という意味では、戦後日本経済の繁栄を支えた石炭、鉄鋼、その後の国際貿易の中で果たした家電産業や自動車産業と以上に、日本経済発展に貢献した。                                             

2、            官営製糸工場(富岡)をはるかに上回る生産性を、信州の製糸企業は達成した。これらは民間主導の国際競争力強化の好例。

3、            最大の問題は不安定な国際市況。品質管理、女工の確保、後年は産業規模が拡大とともに自前のエネルギー源(木炭・水利)を石炭に転換(蒸気機関)→コストアップ(経済合理性?)

4、      製糸産業は、女工哀史論、零細農業搾取論という観点だけではなく、むしろもっとすそ野の広い総合的な研究が必要。

富国強兵・殖産興業は時代の要請。国土保全、農村振興・発展、ものづくり産業の発展、資本主義、労使関係、世界経済、国際ビジネス、技術革新等々・・・様々な視点→ 諏訪岡谷には一般機械産業が地場産業として定着、戦後の精密機械産業の発展の基盤。

 

F.横浜の生糸貿易関連施設・・・横浜の発展は「シルク」が寄与したもの。

 1、横浜シルクセンター 展示場

2、横浜開港資料館 

3、横浜税関 展示場(三塔のクィーン)

3、神奈川県庁(運上所址、三塔のキング)

4、横浜市開港記念会館(岡倉天心生誕地、横浜市公会堂、開港50周年、三塔のジャック)

5、赤レンガ倉庫1号館

6、象の鼻(幕府の造った弓形の波止場址)

8、神奈川県立歴史博物館((旧横浜正金銀行)

9、横浜第2合同庁舎(旧生糸検査所)

10、日本郵船 展示場

11、三渓園(貿易商 原三渓)

 

 

第6回 故郷の歴史同好会の開催報告の

 

1、日時:11月26日(土)15001800

2、場所:湯島「萬神居」

3、会費:4,500円(消費税込み)

4参加者(敬称略):丸山光繁、高橋福幸、小林慶三、宮原清明、尾和剛一、山口操、

金谷笑子、尾和弘、櫻田貢喜穗、山本修士、北村和雄、宮原豊(以上12名)

(尾和弘様、北村和雄様は初参加でした)。

5、話題提供者:尾和剛一様・・・「青木村の養蚕業について」

 青木村の養蚕業について、養蚕、桑畑、蚕種の視点から説明。

延喜5年(905年)に記録された「延喜式」に「信濃の国の絹」のことが記載されているが、盛んになったのは江戸時代になってからである。江戸時代の宝永3年(1706年)の記録(宝永差出帳)に養蚕が行われていることが記されている。江戸末期の横浜港の開港で輸出が始まると上小地方で養蚕飼育が盛んになり、明治期に生糸貿易が盛んになると青木村でもほとんどの農家が養蚕に乗り出し、村の畑はほとんどが桑園になった。明治・大正期に最も盛んになった製糸業・養蚕業は、現在の自動車産業のような位置づけであったと思われる。しかし、昭和4年(1929年)のニューヨーク株式市場の大暴落に始まる世界恐慌で、生糸の価格も暴落し、養蚕業も苦境に立たされた。養蚕技術の振興・発展、桑畑の開発、繭の取引、蚕種商いのことなどが報告された。

 

 この後、青木村のほとんどの家が何らかの形で養蚕業、製糸業、あるいは蚕種や繭の取引に関係しており、観光業(温泉旅館)も含め全ての産業が養蚕業発展の恩恵に浴していた。それぞれの子供時代の思い出として「養蚕」が色濃く残っており、養蚕農家の大きな家屋、お蚕様中心の生活、蚕種保存の子檀嶺岳の風穴利用のことなど、思い出が語られた。

 

尾和さんはいかにも理科系の人らしい資料のまとめ方で、歴史年表を駆使して分かりやすく説明いただきました。このテーマについて続編があるそうですが、少し時間を空けて(次回ないしは次々回には)再び尾和さんに準備いただくこととなりました。

 

次回の第7回故郷の歴史同好会は、この青木村の養蚕業に大いに関係するのですが、宮原豊がテーマを「生糸の貿易」として、日本の製糸産業の発展(製糸業と貿易の推移)と日本経済に果たした製糸業の役割とを、横浜港の歴史を振り返りながらまとめてみたいと考えます。

日時は2017225日(土)15001800、場所は同じく湯島「萬神居」です。時期が来ましたらご案内いたします。

 

 

 

5回  故郷の歴史同好会の開催報告

 

1、日時:730日(土)15001800

2、場所:湯島「萬神居」

3、会費:4,000円(消費税別途支払い)

4参加者(敬称略):丸山光繁、高橋福幸、小林慶三、宮原清明、山口操、 金谷笑子、山浦(敏)、櫻田貢喜穗、沢村良江、山本修士、増田(菊)、宮原豊(以上12名)

(増田菊雄様、山浦(敏)様は初参加でした)。

5、話題提供者:丸山光繁様・・・80歳代半ばを過ぎて今も全く年齢を感じさせないお元気な姿は、誰もが見習いたいと思っています。何か秘訣があるに違いないと思います。我々若輩の者にとって丸山様ご自身が生きる歴史であると認識しておりますが、気楽に「自分史」を語っていただきました。昭和一桁生まれに丸山さんから、昭和16年生まれの諸先輩6名と昭和20年代生まれ(戦後生まれの)者が、丸山さんの青木村での子供時代の思い出や同級生のこと、あるいは戦中・戦後の大変な時代のことなどをお伺いし、その後は楽しい懇談をとなりました。

 

昭和6年(1931年)生まれの85歳。明治元年から(今年)平成28年まで148年が経っているが、その後半の85年間を生きてきたことになるそうです。丸山さんが小学校に入学した昭和13年は日中戦争が勃発、太平洋戦争が終わった昭和20年には14歳。その頃の青木村のことをお話しいただきました。初めての戦争の記憶、出征兵士の見送り、練習機「赤とんぼ」が飛んできたこと、国民学校や戦後の学制変更の頃の記憶、青木線電車や木炭バスの思い出など、戦後生まれの我々もものの本で読むことはあっても、直接経験談を聞かせていただき、戦中戦後の当時の青木村の様子がより実感として知ることができました。青木村は狩猟が盛んであったとのこと、戦後の一時期、南朝末裔という熊沢天皇も沓掛や田沢の温泉に遊び、趣味のハンティングを楽しんだそうですが、それが記憶によく残っているそうです。丸山さんは、体幹がしっかりしていて、頑健な身体に今もって明晰な頭脳を維持しておられるのは、「運」ですよと言われていましたが、日ごろの鍛錬の賜物であろうと思われます。ただ、昭和一桁生まれの人は幼年期に戦中戦後生まれより食料事情がよかったのではないかとも感じました。前青木村長の宮原毅氏は国民学校の同級生、イトーヨーカドーの鈴木敏文前会長は高校(旧制中学)の同級生だそうです。

 

 

 

4回 故郷の歴史同好会 報告書

 

日時:2016年5月14日(土)15:00~18:00

場所:湯島「萬神居」

参加者(敬称略):丸山光繁、高橋福幸、小林慶三、尾和剛一、宮原清明、山口操、

金谷笑子、櫻田貢喜穗、沢村良江、山本修士、宮原豊(以上11名)

テーマ:「当郷が青木村に合併した背景」

 

1回:同好会の今後の取り組み方に加え、高橋さんから「小林直次郎先生のお話」、第2回:「満蒙開拓団と青木村」について櫻田さん、第3回:「青木精神と歴代村長の系譜~小林直次郎氏の影響」について小林慶三さんから報告いただき、その後に懇談・意見交換をしてきました。今回は第3回までの流れに関係がないわけではなく、今の青木精神の土壌となっている「当郷が青木村に合併した後の青木村」について考察するために当郷出身の山本修士さんに上記のテーマで報告いただいた。

 

古代より信濃のこの地方は「小県(ちいさがた)」と呼ばれてきたが、平成の大合併を経て今では周辺の町村の多くは上田市と合併し(吸収合併され)、地名の上に小県郡と付しているのは青木村と長和町(長門町と和田村が合併)の2町村だけになっている。

 

今回、山本さんからは、市町村合併のメリット、デメリットについて、また明治の大合併、昭和の大合併、平成の大合併における全国の市町村数の推移等を総論的に踏まえた上で、昭和の大合併(昭和28年~36年)の中で、浦里村(浦野、岡、仁古田、越戸)と室賀村および小泉が合併して川西村(当時の推定人口6,500人)が成立する過程で、浦里村に属していた当郷が浦里村から分村し(川西村と合併せずに)青木村と合併したという歴史について報告いただいた。この当郷の青木村への合併は昭和32年(1957年)41日のことであったが、その16年後の昭和48年(1973年)に川西村は上田市に編入合併され、川西村は廃止されたこと、また平成の大合併により真田町、丸子町、武石村も上田市に合併されたことを報告いただいた。

 

今回出席者11名の中では、山本さんが唯一の当郷出身者であったが、昭和26年生まれ(早生まれ)の山本さんの年代はちょうど小学校1年に上がった時のことだった(ちなみに昭和23年生まれの宮原(豊)は小学校3年生の時)。既に59年も前のことであるが、世代(年齢)により受け止め方に大きな個人差があるようなので、何人かの人から思い出を聞いた。最年長の丸山さんは、その頃は既に東京で社会人となっていたので、その頃の記憶も感慨もあまりないとのこと。高橋さんや尾和さんも中学校を卒業した後なので、当郷の人たち(子供達)と小中校で学校生活を共にしたことはなかった。(今回は欠席の)岡田敦子さんは中学1年生から青木中学に入学したが、浦里小学校の友達と別れるのがつらかったと聞いたことがある。奈良本の沢村さん(23年生まれ)は小学校4年まで分校だったので、当郷の人の方が2年先に青木小学校にいたことになる。

 

山本さんが何人か自分の周りの人の意見を聞いたところでは、「当郷の住民は川西村ではなく青木村の一員になってよかったと思っている人が多い」と総括していたが、川西村が短かい年月の後に上田市に吸収合併された結果を見てのことと思われる。当郷の住民にとっても元の青木村の住民にとっても(双方にとって)メリットのある合併であった(成功した合併であった)と考えられると感想を述べたのに続き、以下のような意見が出された。

 

青木村にとって当郷が合併した意味は大きい。当郷の人口は青木村の人口の4分の1以上を占めている(合併時に比べて、全体の人口が減少傾向にある中で当郷の人口は相対的に減少がなかった)のではないか。小林さんから、殿戸は隣同士であったから子供の時から当郷の人と良く遊んだとの貴重な話をお聞きできた。合併について当郷の人たちは真剣に話し合ったことであろうが、村境を超えた人と人との地域交流を通じて当郷の人も青木村に親近感を抱いていたことが合併と合併後の村の運営がうまく運んだことにつながるのではないかと想像する。

 

話は更に平成の大合併に及び、青木村は住民の総意として、上田市に合併しないことを決めた訳であるが、上田市と合併するメリットは少なく、デメリットが大きいとの判断であったことが話題になった。(高橋さんの話では)行政の合併より前にあった農協の広域合併の結果から判断し、行政上も上田市との合併には何のメリットもないどころか、デメリットばかりであると、そして上田市に合併された某町村の人からは青木村の選択が羨ましい(行政サービスや福祉の面で)と言われているとのことであった。

 

(最後に)今回山本さんが提示された長野県の行政マップを眺めながら、規模のメリットやそれによる効率を追求しようとする中央からの方針(押し付け)は青木村にとってはデメリットばかりだと、よくぞ全国的な時流に流されなかったものだと思う。

 

平成の大合併で上田市に合併しなかったことについては住民の総意であったとは言え、あるいは今も様々な意見があるのかもしれないが、今回の同好会を以上のように報告します。

 

 

                          (文責:宮原豊)