3回 故郷の歴史同好会 報告書

 

テーマ「青木精神と歴代村長の系譜~小林直次郎氏の影響」


1
、青木村成立よリ早い明治19年に青木学校が発足(学校の立地で調整困難なであったことや「青木」という名前の由来を教えていただきました)。
2
、小林直次郎氏は、明治21年~42年まで青木学校長。大正9年~昭和4年青木村長(その間、村長兼任で長野県議会議員・議長も務めている)。明治38年には後の「青木時報」に連なる「同窓会報」を創刊。
3
、大正9年青木村青年会発足。同10年「青木時報」が発刊される(第1期は昭和15231号まで継続)。時は大正デモクラシーの頃、編集主任は栗林一石路。さすがに対米戦争中(昭和16年~20)は刊行できなかったものの、昭和6年の満州事変後の軍部が台頭する厳しい環境の中でも政治的にかなりきわどい内容の記事が掲載された。戦後復刊し昭和21年~35年までが第2期。

 

4、「義民」関係の記事も多く掲載せられており、青木時報は青木精神醸成に大きな役割を果たしたが、これは青木学校長・青木村長を長く務めた小林直次郎氏をはじめとする先人達が培ったもので、それを源流とする自主自立の精神は今に脈々とつながっていると言えよう。

(文責:宮原豊)

 

第2回 満蒙開拓団と青木精神

1024日に第2回「故郷の歴史同好会」を開催(12名)し、「満蒙開拓団と青木村」をテーマに櫻田喜貢穂氏の報告の後意見を交換しました。

 

満蒙開拓団は、昭和6年~終戦の20年に至るまで、国策として全国から22万人以上が中国東北部と内モンゴルに送り込まれ、長野県は全国でも断トツの3万人以上が入植しましたが、青木村からは送り込まれていません。

 

報告者はこの事実を分析し、青木村が開拓団を送らなかった事情について次のような見解を述べました。

  1. 農民一揆の伝統、義民精神が伝統的精神風土として存在。

  2. 「青木時報」の存在。

  3. 国策を先導・扇動する国に都合のよい中心人物が現れなかったのか、むしろ村のリーダー(中心人物)は①や②により国策に乗らない方向を志向したのではないか。

     

    当時の村のリーダーや青木時報についてもう少し関連情報を研究することが必要との考えから、次回テーマとして掘り下げることとなりました。

    櫻田氏の報告資料は伝言板の「故郷の歴史同好会② 資料」をご覧ください。

 第2回 故郷の歴史同好会 資料

櫻田 喜貢穂

満蒙開拓団 関連年表

 

 

国内外

長野県の動き

1929

昭和4

世界恐慌の影響が日本に及ぶ。国内の失業者増大、農村不況深刻化

繭価暴落 1貫目:大正14年/10.14円 昭4年/6.49円 昭5年/2.55

1931

昭和6

916日満州事変 関東軍柳条湖の鉄道路線爆破

南信国民大会 決議文「国論を喚起し満蒙国策大儀を敷くべし」中原謹司

1932

昭和7

31日 満州国建国

86日 第1次武装農業移民492人神戸港出発

1月 長野県が満州愛国信濃村建設趣意書を作成

52日 信濃村建設資金募集 県全体で10万円 一戸平均35

81日 信濃教育会主催満州視察

1933

昭和8

75日 第2次武装農業移民455人原宿駅出発

24日 2・4事件608名が検挙される。

820日~924日 信濃教育会主催満州移民地視察

1936

昭和11

825日 広田内閣「7大重要国策決定」満州移民が国策となる。

県単独編成の開拓移民団送出 以後どんどん送り出す。

1941

昭和16

4月 日ソ中立条約

128日 太平洋戦争始まる。

124日 満蒙開拓青少年義勇軍長野県父兄会下伊那支部結成(会長:下伊那教育会長)

194244

 

送出続く。

1945

昭和20

710日 根こそぎ動員(召集免除が撤回され、18歳以上45歳以下の男子が根こそぎ召集され、開拓団には老人・女性・子供が残された。

86日 広島に原爆投下

88日 ソ連参戦通告→右欄へ

 

89日 ソ連軍が満州に侵攻

      長崎に原爆投下 

満蒙開拓団 死の逃避行が始まる。

810日 東安駅事件※1

812日 麻山事件※2

814日 葛根廟事件※3

815日 無条件降伏

816日 石碑嶺河野村開拓団集団自決

 

※1東安駅事件 関東軍が駅構内を爆破 避難中の開拓団の婦女子700人余が死亡

※2麻山事件 哈達河開拓団 ソ連軍戦車に襲われ多数が戦死。自決460人余。

※3葛根廟事件 ソ連軍戦車に襲われ開拓団婦女子1000人以上が死亡

 

 

満蒙開拓団に関する基礎知識

 

満蒙開拓団:1931年(昭和6年)に起きた満州事変から1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦時に至るまで、旧満州国(中国東北部)・内モンゴル地区に国策として送り込まれた入植者約22万人のこと。

 

満蒙開拓青少年義勇軍:15歳~19歳の青少年を募集し、茨城県の内原訓練所で3ヶ月訓練し

     てから「北満」、つまりソ連国境の奥地に送り込み、国境警備にあてた。

     約10万人

 

順位 道府県

満蒙開拓団員

青少年義勇隊員

合計

 1 長野

31,264

6,595

37,859 (11.8%)

 2 山形

13,252

3,925

17,177 (5.3%)

 3 熊本

9,979

2,701

12,680 (3.9%)

 4 福島

9,576

3,097

12,673

 

 

 

 

  5 千葉

1,037

1,111

2,148

  6 神奈川

1,013

575

1,588

  7 滋賀

93

1,354

1,447

合 計

220,359

101,514

321,873

 

「開拓」の実態 

入植・開拓とはいうものの、もともとは現地人が持っていた農地を収奪し、日本から送り込

まれた農民が農地を支配し、農業を行うというもの。

 

「開拓団」の実態

日本が満州を植民地化し、支配するための道具にされた農民集団。

太平洋戦争がはじまり、ソビエトが敵国として意識されるようになると、満蒙開拓団20万

人以上が、ソビエトに対する「人の盾」にされた。戦争末期には、徴兵を免れていた(徴兵

されないと言われていた)開拓団の男性も「根こそぎ動員」。軍隊に召集された。

 

悲惨な結末 

昭和20年8月9日、ソビエト軍が満州に侵攻した時には、関東軍は南に移動(逃げた?)

しており、女性と子供と年寄りがほとんどの開拓団は、ソビエト軍と現地の人たちの暴力に

さらされた。集団自決、収容所生活、過酷な引き揚げ。満州開拓団のうち8万数千人が亡く

なったと言われている。

この悲劇から、残留孤児や残留婦人など現在に続く問題も生じている。

 

満蒙開拓団と青木村

 満蒙開拓団は22万人以上(27万人との説もある)と言われているおり、長野県がダントツ

 で3万人以上を送り出しているが、青木村は、満蒙開拓団を送り出していない。青木村民は

 なぜ国策に乗らなかったのか。

 

1 いかなる国策か。

  昭和4年 世界恐慌の影響が日本に及ぶ。国内の失業者増大、農村不況深刻化。

昭和5年 繭の価格が大暴落。しかも56年と続けて大凶作→貧農を満州に送り込もう。

→満州事変を起こし→満州国をでっちあげる。

満州植民地化の人的道具。

経済目的:国内の貧農を満州に送り込んで自活させ(国内の農業経済の更生にもなる)、

満州の利権、満州から上がる収益を取得する。ソ連から満蒙の利権を守る。

軍事目的:「人の盾」としての軍事的な役割を担う。

 

2 なぜ長野県がダントツなのか?

  貧農でかつ8割の農家が養蚕農家 長野と東北が打撃を受けた。

(逆に、米を自給できる滋賀県は極端に少ない)

経済的要因があることは十分理解できるが、東北を抜いてダントツなのはなぜか。

2・4事件 (赤化)教員弾圧・左派農民運動弾圧・共産党弾圧によって、国策に反対す

る勢力を封じ込め、逆に転向した連中を活用。これは特に下伊那郡にみられる傾向。

「中心人物」の育成・信濃教育会による先導・扇動 教育県であることの国家による利用(つまり洗脳しやすい)

 

3 青木村が満蒙開拓団を送り出していない理由を考えるキーワード

(1) 農民一揆・・江戸時代の4回の農民一揆+明治2年の農民一揆

農民一揆の伝統、義民精神が息づいている「伝統的」精神風土が存在する。

 

(2) 「青木時報」

農民一揆の伝統を引き継いでいるのか?

「青木時報」の精神性・社会正義への強い関心→「中心人物」が育たないのか?

 

(3) 左翼的農民運動

農民一揆の伝統と関連するのか?

左翼的農民運動の存在が「中心人物」の出現を抑えたか?

 

「青木時報」とは何ぞや?

 

青木村誕生120年(1889年~2009年)を記念して「復刻 青木時報 全3巻」が出版された。それを上田市の平林堂書店のブログで下記のように紹介している。

 

◎大正デモクラシーが真っ盛りだった大正105月に誕生した地域新聞で、初代編集長は自由律俳人の栗林一石路。

◎大正105月~昭和36年まで41年間に392号を刊行。青木村の真の連携と文化形成に大きな役割を果たしてきた。

◎「時事の報道批判を掲載します」と宣言したうえで、政府の政策や干渉に対して度々激越な論文を載せるなど、「義民・反骨・自立の村」と言われる青木村の原点であり、その精神の歴史的文化財と言っても過言ではないでしょう。

 

「跡部郷那須の里のつれづれに」の注記に次のような記載がある。

幸いといっては叱られるかもしれませんが、青木村では、昭和8年(1933)青木時報(136号)で「満蒙信濃村の意図は資本主義の危機防衛にある」として「満蒙愛国村建設には反対せねばならぬ」と反対の記事を記載している。このことから村民一般は国の政策に協調して渡満した人は少なかったと考えられる。

 

「田沢郷中村誌編纂委員会編・中村誌」の「軍国主義から太平洋戦争へ」の満州・上海事変の下りに次のような記載がある。

「青木時報」132号(昭7・9・1)「三行調」に「満州事変の発端とする満鉄爆破の如きは真実は日本陸軍の仕業である」と喝破した記事は、戦時色一色になりつつある時としては注目すべき記事である。この時従軍していた、原潤(宮原義男)は「青木時報」129131号に「上海よりハルピンへ」と135号に「チチハル以北」と「戦線だより」を寄せている。

そして、この記述に続いて、原潤の「戦線だより『チチハル以北』」の一節の一部を掲載しているが、そこには「満州には夢も無いロマンスもセンチメンタルもないのだ!」との原潤の叫びが載せられている。

 

青木時報のすすめ -作家 井出孫六- (南佐久郡臼田町出身)

 

大正デモクラシーの中で生まれた「青木時報」は満州事変に出征した兵士の手紙で「満州」の実態を伝えた。満州信濃村建設どころか「青木村再建こそ現下の急務だ」という鋭い呼びかけがあって、青木村は満蒙開拓団を送り出さない数少ない村の一つになったことを忘れるわけにはいかない。広く読まれることを望みます。        (以上 櫻田喜貢穂)

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第3回 青木精神と歴代村長の系譜  -小林直次郎の影響-

123日に第3回「故郷の歴史同好会」を開催、13名が参加して表題のテーマで楽しくかつ真剣に意見交換しました。

 

報告者の小林慶三氏は、綿密な資料渉猟の結果を簡潔に纏め、口頭で補足して示唆に富んだ報告をしました。又、高橋福幸氏は、該博な村史の知識で報告内容を深く掘り下げました。

 

 明治22年青木村成立から現北村村長まで20代の各村長の業績につき、主に小林直次郎村長(12代)の活動に照準を当てて、時代背景の中で村民をリードするのにどのような苦労があったかに思いを馳せました。議論の過程で有意義な知識も得られました。

 以下に内容の一部を紹介します。

 

1)小林村長時代に発刊された「青木時報」(昭和35年まで通算392号刊行)は、時々の政治状況や社会風潮の中で、時には権力に抗いながらも村民世論をリードする貴重なオピニオン紙として存続した。

 プロレタリア俳人栗林一石路も一時編集や執筆に携わっている。

2)「青木小学校」は、明治19年の小学校令により4つの学校が統合されて発足したが、新校

  舎の立地は長い間の懸案で、現在の場所に完成したのは、昭和17年のことである。「青

  木」の名は村名よりも古く、小林村長作詞の村歌「常磐の緑」は元来青木小学校歌。

 前回テーマの満蒙開拓団へは、青木村からも数名が参加しているが、経緯は不明。

 

 

第1回 同好会の運営方針決定

81日に第1回「故郷の歴史同好会」を開催し、会の運営方針や今後の開催計画(テーマ等)について話し合い、和気あいあいと楽しく有意義な時間を共有することができました。決定事項は以下のとおりですが、意見交換の概要は、伝言板「コメント7」をご覧ください。

 

1.出席者:10

2.会費:飲食代4,000円+通信費 500円(今後も原則として4,500円とします。)

3.確認事項

会の運営方針・・・自主運営。

(1)連絡体制など確認・・・昭和20年代生(櫻田、宮原、山本)が主に担う。

(2)飲食代はその都度精算する。

(3)通信費等は会合毎に参加者から500円程度を徴収、幹事が記帳・管理する。

開催頻度・・・3か月に1回程度

報告・・・東京青木会HP上「故郷の歴史同好会」に掲載。

4.「郷土の偉人:小林直次郎家4代記」(高橋福幸氏による解説)

 

第1回故郷の歴史同好会の意見交換の際、この会に期待するところ、会の運営、あるいは関心テーマ等について出席者一人ずつから聞きしました。参加者から寄せられた意見を以下に略記します。

 

①満州国が建設された頃、満蒙開拓は国を挙げての国策で、長野県各町村からも数多くの開拓団が派遣されたが、青木村は開拓団を出さなかった数少ないところらしい。その背景に(山林あり養蚕ありで)経済的に豊だったことがあるにしても、易々と国策に乗らない青木村の人々の自立心を支える精神風土とはどのようなものか、昨今国会で安保法制が議論されている中で大いに関心がある(櫻田)。

 

②前の宮原毅村長と同級生(昭和6年生)で、青木の歴史には大いに関心がある。皆さんといろいろ話したい(丸山)。

 

③農民運動・義民に関心がある。明治・大正期には「青木時報」が優れた論述を展開、社会正義に基づく独自の情報発信をしていたが、こういうところにも「義民」から培われてきた精神性が生きていることを感じる(小林)。

 

④最近母の生き様などを思い出し、青木村とその人々のことを誇りに思う。これからボケないためにも故郷の歴史を一緒に勉強したい(山口)。

 

⑤上小や青木の歴史については、古代から近世まで語るべきことがたくさんある。古代には信濃は「馬」が重要。大法寺も重要な歴史遺産。しかし、最も大きな関心事項は「養蚕」の歴史。単なる養蚕ではなく、蚕の種を扱っていたことが豊さの理由ではないか。養蚕の歴史を語り継いでいきたい。(高橋)。

 

⑥「歴史」について語ることは多くないが、故郷の歴史を語り、考えるという共通の場を持てることが重要。この会を楽しく進めてもらいたい(尾和)。

 

⑦「常盤のみどり」の作詞家・作曲家は、当時としては有名なトップクラスの知識人であり、そういう人と親交のあった小林直次郎先生もまた一流の人であった。長野県の教育の発展に尽くされた先生の業績をもっと調べたい。中学の校庭の片隅に児玉源太郎の小さな石碑が立っているが、青木とどういう関係があったのか知りたい。村内に残された石碑を調べることも面白い(宮原清明)。

 

⑧時間が足りないという理由で中学・高校であまり習わなかった近現代史。自分に最も近い故郷の歴史から近現代史を学びたい(小林)。

 

⑨一般記憶ではなく自分たちの個人的な記憶として残っているエピソード記憶を、故郷の歴史の中で蘇らせたい(それが認知症予防につながると「天声人語」)。青木村を通り抜ける古代の主要道路・東山道の歴史を学校で学ぶことはなかったが、学校で習わなかった歴史を掘り下げたい。(住職が同級生と言うこともあるが)瀧仙寺本堂が400数十年ぶりに建て替えられているので、寺の歴史にも関心がある。昭和30年代に当郷が青木に合併したのは、全国の市町村合併の歴史でも稀有な出来事のように思うが、その背景、合併の効果、子供たちの学業に与えた影響等々について知りたい(宮原豊)。